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本記事では、日本における同性愛の歴史を古代から現代まで解説していきます。同性愛について調べている方、是非ご覧ください。

初めに
IRISでは、あらゆるマイノリティが暮らしやすくなることを目指すという意味から「LGBTs」と表記していますが、今回は一般的な「LGBT」について解説するため、表記が混在しております。

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同性愛とは

同性愛とは、男性同士や女性同士の性愛関係や性的指向を意味します。同性愛の性質を持っている方のことを同性愛者と言い、英語ではHomosexual(ホモセクシュアル)と表現します。

日本においては、ゲイとレズビアンが同性愛の性質を持つセクシュアリティであり、同性愛者となります。同性愛者と異性愛者の違いは、同性に惹かれるか、異性に惹かれるかの違いになります。

ゲイ(男性同性愛者)

ゲイとは、男性として男性に恋愛感情や性的魅力を感じることがあるセクシュアリティです。よく、ゲイの男性は心の性別が女性だから男性に惹かれると考えられる方がいるのですが、ゲイの男性は、心の性別も男性であり、男性として男性に魅力を感じられています。心の性別が女性だから、男性に惹かれるわけではありません。

身体的男性で、心の性別が男性以外で男性を好きになるのは、ゲイとはまた違ったセクシュアリティやジェンダーになります。例えば、身体的に生まれ持った性別が男性であり、心の性別が女性の場合には、トランスジェンダーになり、ゲイとはまた異なる存在になります。

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レズビアン(女性同性愛者)

男性として男性に恋愛感情や性的魅力を感じるゲイに対し、女性として女性に恋愛感情や性的魅力を感じるのがレズビアンとなります。レズビアンもゲイ同様に、心の性別が男性だから女性を好きになっているわけではなく、女性として女性に魅力を感じています。

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日本における同性愛の歴史

日本における同性愛の歴史は古代まで遡ることができます。その多くは、基本的に男性同性愛者(男色)の歴史となっています。

1.古代

『日本書紀』に記載されている神功皇后の項目に、同性愛に関連するエピソードが挙げられます。このエピソードでは、神官の小竹祝と天野祝という2人が、一方が病死した後、もう一方が殉死して共に埋葬されました。しかし、これが原因で異常な天候が続き、後に墓を開き別々に再埋葬すると、天候が正常に戻ったとされています。

岡部東平はこの「阿豆那比の罪」という出来事を男色の罪として解釈しますが、難波美緒はこれを単に異なる社の神職を同じ墓に埋葬したための罪と解釈しています。このようなエピソードが他にも存在し、天皇からの寵愛を受けた記述も『日本書紀』には多く残っています。全てを男色と決めつけることはできませんが、男性が男性を「寵愛」する記述は珍しいものではありません。

2.奈良時代と平安時代

奈良時代及び、平安時代には仏教の広まりと共に、寺院での男色もかなり広まったと考えられています。奈良時代には、貴族の子弟が寺院に入り、僧の身の回りの世話などをすることが制度として確立していました。男色の対象とされた少年たちは、元々は稚児として寺に入った者達であり、彼ら有髪の少年は寺稚児、垂髪、渇食などと呼ばれていました。こうした稚児を寵愛する風習は、奈良時代以降かなり仏教界に広まっていたとされています。

天台宗などでは僧と稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式があり、灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身とされ、僧侶は灌頂を受けた稚児とのみ性交が許されていました。寺社内での男色を知る貴重な資料に、平安時代に成立したとされ、稚児灌頂について記された『弘児聖教秘伝』や、京都醍醐寺所蔵の「稚児之草紙絵巻」(元享元年、鎌倉末期)などがあります。奈良時代にはめぼしい男色の記録はありませんが、万葉集には大伴家持らの男性に宛てたと思われる恋愛を詠んだ和歌が多数収められています。

また、奈良時代後期には孝謙天皇の皇太子に立てられていた皇族・道祖王が「先帝(聖武天皇)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した」などの理由で廃嫡に追い込まれたとの記録が残されています。

3.平安末期から鎌倉時代

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、男色が日本の公家文化に広まりました。この風潮は藤原頼長の日記『台記』に記された複数の男色関係からも窺えます。また、源義経と武蔵坊弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との間の主従関係にも、制度化された男色の痕跡が見られるとされています。北畠親房は『神皇正統記』で男色の流行に触れ、14世紀に成立したとされる『稚児観音縁起』では、稚児と僧侶との関係が描かれていることから、この時代の男色の文化的背景が明らかにされています。

4.室町時代

室町時代に入ると武士間で男色が流行し、「衆道」として知られるようになりました。足利義満は少年時代の能役者、世阿弥を寵愛し、芸能発展に大きく貢献したとされます。また、足利義教は赤松貞村を寵愛し、彼に領地を加増しましたが、これが赤松満祐の不満を招き、義教の暗殺に繋がったと言われています。この時代には、『菊慈童』や『花月』など男色をテーマにした能や狂言が多く作られました。

5.戦国時代

戦国時代の随筆「梧窓漫筆」では、この時代に武士の間で男色が一般的であったことが述べられています。特に、戦国大名が小姓を寵愛の対象とする文化が広く行われ、寵童の中からは多くの勇士が生まれたと記録されています。この文化は当時の武士社会において、広く受け入れられていた風習であり、多くの武将によって実践されていたことが分かります。

戦国時代の男色関係の著名な例としては、上杉景勝と清野長範、伊達政宗と片倉重綱・只野作十郎(作十郎が疑いを晴らすために自ら腕を刀で切ったエピソードが有名)、豊臣秀次と不破万作といった関係が挙げられます。武士道と男色は矛盾するものではないと考えられており、江戸時代中期に編纂された『葉隠』には、男色に関する行動規範について説く章も含まれています。

1549年に来日したフランシスコ・ザビエルは日本人の多くの美点を賞賛しつつも、男色を許容できない罪として非難しました。彼を保護した大内義隆は、ザビエルのこの見解に立腹し、一時は布教の許可を拒否しました。1579年に来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本人が男色を公然と誇り、隠さない慣習について記述し、1619年に来日したフランソワ・カロンも同様の観察をしています。

6.江戸時代前期

男色と武家の作法が結びついた文化を「衆道」と呼びます。「若衆道」とも短縮されるこの用語がいつから使われ始めたかは明確ではありませんが、確認できる最古の記録は1653年の江戸幕府の公式文書に見られます。このことから、武士の間で男色が行われていたのは鎌倉時代に遡り、室町時代には一般的になり、江戸時代に入って「衆道」という用語が使われるようになったと推測されています。

徳川将軍15代のうち7人が衆道関係を持っていたことが記録されています。特に三代将軍家光と五代将軍綱吉の衆道への耽溺はよく知られています。家光は少年愛にのめり込むあまり、女性を遠ざけていたため、乳母の春日局が大奥の設立を進言したという逸話が残っています。綱吉は江戸城内に「桐之間」と呼ばれる男色の部屋を設け、美少年たちとの関係を楽しんでいました。これらの美少年は「桐之間御番」と呼ばれ、特に美しい少年たちは「桐御殿」に住まわせられました。

江戸初期には、衆道とは別に売色化した男色文化が発展しました。この時代に若衆歌舞伎が人気を博し、陰間遊びが流行しました。町人の間では「色若衆」と呼ばれる少年たちが登場し、彼らを置いた陰間茶屋が繁盛しました。この文化は室町時代後半から存在していましたが、江戸時代に特に根付きました。京都の宮川町、大坂の道頓堀、江戸の日本橋葭町や湯島天神門前町などに少年を置いた遊郭が多く見られたといわれています。

男色は江戸時代の町人文化にも深く根ざし、井原西鶴の『好色一代男』(1682年)では、主人公が数多くの女性とともに多くの少年とも関わったことが記述されています。西鶴は他にも男色を題材にした作品を多く手掛け、近松門左衛門も同様のテーマを取り上げています。男色は売色としても確立され、倒錯的行為や倫理的問題として見なされることはありませんでした。しかし、江戸初期には一部の藩で衆道を厳しく取り締まる動きもありました。

7.江戸時代中期後

江戸時代中期には、男色によるトラブルが増加し、風紀を乱すものとして問題視され始めました。美少年を巡る刃傷沙汰が頻発し、忠誠心よりも男色相手との関係を優先するケースも見られました。そのため、姫路藩主池田光政や米沢藩の上杉治憲は男色行為に厳しい取り締まりを実施し、江戸幕府も風俗を厳しく監視し、陰間茶屋の禁止など、風紀整備の一環として具体的な対策を講じました。その結果、幕末には公然と男色が行われることが減少しました。

ただこの時代にも、武士道に関連した衆道の心得を説く『葉隠』が出版されたほか、町人文化や文学においても男色が頻繁にテーマとして取り上げられました。平賀源内は陰間茶屋の案内書や男色を題材にした小説を執筆し、上田秋成の『雨月物語』には男色に関する話が含まれています。また、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、同性愛関係にあるキャラクターが登場し、その背景が描かれています。

歌舞伎作品『白浪五人男』(1862年)では、弁天小僧が過去に寺の稚児であったというエピソードが舞台上で語られます。この作品を含む『雨月物語』や『東海道中膝栗毛』、『好色一代男』は英語に翻訳されており、幕末まで男色は文化として根強く続いていました。例えば、維新直前には隅田川で若衆を伴い船遊びを楽しむ光景が見られたと記録されています。

8.幕末・明治初期

1864年に近藤勇が新選組局内で男色が流行していると記述した書簡が存在します。また、明治初期には薩摩藩出身者の男色の習慣が特に有名で、多くの記録が残されています。しかし、明治維新と共に西洋の価値観が流入し、同性愛が異端と見なされるようになりました。

ゲイリー・P・リュープによれば、鎖国時代には男色が日本で日常的に行われていましたが、開国後に西洋人の非難を受け、当時の日本の指導者たちはこれを不道徳なものと見なすようになりました。新渡戸稲造は男色を「野蛮で暴力的な行為」と非難し、精神修養による抑制を説いています。また、1894年にジェームス・カーティス・ヘボンが編集した辞書には、「NANSHOKU」や「WAKASHU」などの同性愛関連語彙が含まれており、「sodomy」や「sodomists」といった語で説明されています。

幕末期に男色が急速に衰退した背景には、遊郭での売春がより手軽になり、都市部における女性人口比率の改善があります。これにより、女性との性的行為が容易になったため、以前は機会的な同性愛に頼っていた男性たちが男色を行う必要がなくなったとされています。この変化は、社会の性的慣行における大きな転換点となりました。

9.明治5年(1872年)11月、「鶏姦律条例」

明治5年(1872年)に「鶏姦律条例」が発令され、アナルセックスを禁止する規定が設けられました。翌年の「改定律例」では「鶏姦罪」として具体的に定義され、違反者には懲役刑が科されることとなりました。この法律用語は中国の「大清律例」における「㚻姦罪」に由来し、「けい」の音が同じ「鶏」の字が用いられました。この規定は、日本における同性愛行為に対する法的取り扱いの変化を示しています。

「改定律例」第266条によると、平民が鶏姦を犯した場合は懲役90日とされ、華族や士族の場合は名誉の問題も考慮されました。強姦の場合の懲役は10年で、未遂の場合は量刑が一段階軽減されました。また、鶏姦の被害者が15歳以下の場合は処罰されませんでしたが、16歳以上の被害者に対する特定の規定は設けられていなかったようです。

「鶏姦律条例」は、日本で男色行為の一部を刑事罰の対象とした唯一の時期を示しますが、明治13年の旧刑法制定時にはこの条例は含まれず、明治15年に消滅しました。鶏姦律条例は、熊本県(旧白川県)からの問い合わせに応じて作られ、地方の学生間での男色行為を抑制するためでした。ただし、男色自体が禁止されたわけではなく、特に薩摩藩では継続されていました。法の実際の適用は限定的で、主に刑務所内や女装者間での事件に限られていました。

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10.明治後期

明治20年代以降、異性間の恋愛が尊重される風潮が高まりましたが、男子のみの集団生活が増えたため、学生寮、軍隊、刑務所などで機会的同性愛行為が見られました。森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(1909年)では、学生寮での美少年愛好の様子が描かれています。また、18世紀前半の衆道物語『賤のおだまき』が新聞『自由燈』に再掲載され、学生の間で流行しました。

明治25年から26年にかけて、日本では男色に関する文献がいくつか出版されました。『明教新誌』では「変成男子」と題された記事が1892年に掲載され、男色に関する社会的な見解や個別の事例が紹介されました。また、『風俗画報』では1893年の9月から12月号にかけて「男色-笹の屋」という連載があり、この時期の男色に対する文化的な背景や人々の態度が描かれました。

11.大正・昭和(第二次世界大戦前)

西洋の非難を受けて一度は風化した日本の男色文化が、大正時代には秘密クラブや男娼といった形で各地で復活しました。発展場も存在していたとされ、江戸川乱歩の『一寸法師』には1927年の浅草公園でのゲイの様子が描かれています。太平洋戦争前には上野公園に男娼が屯しており、昭和初頭には銀座にも進出。ゲイバーやゲイクラブが出現し、公園や映画館が出会いの場となりましたが、かつてのように社会的に賞賛されることはありませんでした。

明治時代以降、男色に関する研究が進展しました。南方熊楠や岩田準一は同性愛を深く考察し、特に岩田は「本朝男色考」で研究の基礎を築きました。また、江戸川乱歩も男色文献の収集に関わり、岩田と競い合いました。岩田は南方熊楠との書簡交換を通じて男色についても議論し、「男色文献書志」の編纂を試みました。太平洋戦争後、稲垣足穂もこの分野で著作を出版し、菊池寛も男色に関する深い知識を持っていました。

大正時代には、同性愛に対する医学的なアプローチが注目され、クラフト・エビングの『性の精神病理』が日本語訳『変態性欲心理』として出版されました。これが性科学のブームを引き起こし、同性愛研究が盛んに行われるきっかけとなりました。その流れで、「同性の愛」や「男性間における同性愛」、「同性愛の民族的歴史的考察」などの研究が発表されました。また、女性同性愛や異性装、性転換に関する議論も活発に行われ、大正デモクラシーから昭和初頭にかけて多くの関連文献が残されました。

12.第二次世界大戦直後

第二次世界大戦後の日本では、権威の喪失や言論の自由拡大により、同性愛に関する表現も多様化しました。三島由紀夫など、同性愛を公に語る作家が登場し、同性愛を肯定的に扱う風潮が広がりました。雑誌『奇譚クラブ』や『風俗草紙』、『風俗科学』では同性愛に関する記事が掲載され、1947年の『奇譚クラブ』創刊号には男娼や男妾に関する内容も含まれていました。

また、太平洋戦争後の日本で、三島由紀夫を含む著名人が関与した『アドニス会』という同性愛サークルが設立され、1952年には日本初の会員制ゲイ雑誌『アドニス』が発行されました。三島由紀夫は榊山保の名義で、小説集『アポロ』に「愛の処刑」を寄稿し、その他にも中井英夫や塚本邦雄が異名を使い寄稿しました。この時代には『羅信』、『MAN』、『楽園』といったゲイ向けのミニコミ雑誌も多数創刊され、『同好』という雑誌は会員数が千人を超えるほどの影響を持ちました。

第二次世界大戦前から東京の上野公園と大阪の阿倍野区旭町には男娼が集まり、特に上野公園は「男娼の森」と呼ばれていました。戦後もこの状況は続き、上野公園では1950年代には女装しない男娼が多く見られるようになりました。また、日比谷公園もゲイの出会いの場として知られ、夜ごとに賑わい、米軍人も訪れることがありました。

1950年代には新宿の要町(現在の新宿三丁目)、千鳥街(新宿御苑近く)、花園街(現新宿ゴールデン街)などにゲイバーが増え始めました。これらのエリアは、一般の飲み屋が集まるエリアで、その中に、中性的美少年バーや女装バーが多く存在していました。ゲイバーが増え始めたことにより、戦後の同性愛者コミュニティが発展し、特定の地域に集中する傾向が強まりました。

1950年代の男性同性愛者に関する調査によると、回答者は主に高学歴で都市部に住んでおり、人権意識が高く海外の同性愛禁止法に反発していました。また、社会から特異な目で見られることを望まず、第二次世界大戦前と比べて罪悪感や自己卑下の感情が減少していたことが分かっています。

13.新宿二丁目の始まり

1960年に創刊された『風俗奇譚』は、異性愛男性向けのSM記事が主でしたが、男性同性愛専用ページを常設し、出会いの場を提供する文通欄やゲイの旅館の広告、レズビアン関連の記事も掲載していました。ただし、レズビアン記事はほとんどが男性によって書かれており、女性同性愛者向けというよりはヘテロ男性向けとされています。1961年には女装専用ページも設けられ、1964年には同じ編集者が会員制ゲイ雑誌「薔薇」を創刊しました。

1968年、稲垣足穂の著作『少年愛の美学』が三島由紀夫の推薦を受け、第1回日本文学大賞を受賞しました。この作品では、人を1つの筒と見立てた「A感覚とV感覚」というエッセイを通じて独自の一元的エロス論を展開し、「A感覚」という概念を広めました。また、足穂は20代の頃に『文芸時代』の同人として活動し、同じく男色研究家である江戸川乱歩とも出会っています。

1968年10月には、澁澤龍彦が責任編集を務めるSM雑誌『血と薔薇』が天声出版から創刊されました。この雑誌はゲイ雑誌ではありませんでしたが、男性ヌードや男色についても特集し、三島由紀夫や稲垣足穂、高橋睦郎など著名人が寄稿していました。同時期には『平凡パンチ』も同性愛に関する記事を多く掲載し、1965年から1970年までの間に約20本の記事が掲載され、若者たちに広く読まれていました。

売春防止法の完全施行後の1958年、東京・新宿二丁目がゲイタウンとして発展し始めました。この地域は芸術家や多くの著名人を輩出し、ホモフォビアによる困難にも耐えながら営業を続けてきました。同時期には、権田原という公園が東京で最も有名なゲイの出会いの場として知られていました。また、1960年代後半以降に生まれた日本の同性愛者の間では、異性との結婚を避け、同性愛者としての生活を選ぶ傾向が見られます。

14.薔薇族創刊

1970年代には、『薔薇族』などの商業ベースのゲイ雑誌が数多く創刊され、同性愛に関する情報の広がりやすさが増しました。これにより、同性愛の大衆化とマーケット化が進みました。ゲイ雑誌では交際欄の設置やゲイバー、ゲイ施設の広告が掲載されるようになり、コミュニティ内の出会いが促進されました。また、欧米のゲイ解放運動の影響を受けて、日本でも1971年には東郷健がゲイとして公表し、参議院議員選挙に立候補するなど、ゲイリベレーションの動きが見られました。

そして、1971年に『薔薇族』が創刊され、日本の商業ゲイ雑誌の歴史が始まりました。これに続き、『アドン』(1974年)、『さぶ』(1974年)、『The Gay』(1978年)、『サムソン』(1982年)が創刊されました。1977年の薔薇族50号には詩人寺山修司が寄稿し、1981年の10周年記念では盛大なパーティーが開かれました。このパーティは、『週刊文春』で取り上げられるなど、非常に注目が集まりました。

15.第1次ゲイリベレーション

1976年11月には10人ほどのメンバーで構成された「日本同性愛者解放連合」が結成され、数年間活動しました。翌1977年3月には「フロントランナーズ」が約6人のメンバーで結成され、こちらも数年間活動を行いましたが、どちらの団体も機関紙の発行には至りませんでした。また、1977年5月にはゲイリベレーションを編集趣旨とする「プラトニカ」マガジンが創刊され、後に「プラトニカ・クラブ」が結成されましたが、1979年に最終号を出して解散しました。

1979年3月、プラトニカ・クラブのメンバー数名が参加し、JGC(ジャパン・ゲイ・センター)が結成されました。JGCは「GAY」と「CHANGE」というミニコミをそれぞれ8号と2号発行し、1982年に解散しました。この団体はメディアや文化人にミニコミを送付し、差別的な報道に対して抗議活動を行っていました。同年、東郷健は「雑民の会」を設立し、これが後に「雑民党」へと発展しました。

1978年、TBSラジオの『スネークマンショー』内の「ウェンズデースペシャル」で、タックがパーソナリティを務め、ゲイに関する話題を取り扱いました。この番組をきっかけに、「ウェンズデーニューズ」というミニコミが発行され、ゲイのグループ「OWC(アウアズ・ワーク・コミュニティ)」が形成されました。また、薔薇族の「少年の部屋」を通じて、1981年に大阪で10代を中心としたゲイ少年サークル「ドリーム・メンズ・グループ」が発足しました。

また、日本在住の外国人ゲイによって結成された「イングリッシュ・スピーキング・オルタネート・ライフスタイル・サポートグループ」が、「東京ゲイサポートグループ」に名前を変更しました。このグループは1984年頃から「COMING OUT」という機関誌を発行し、電話相談や月に数回のイベントを開催して活動を行いましたが、当時のゲイ団体は一部を除いて長続きしなかったとされています。

16.第2次ゲイリベレーション

1980年代中頃、日本におけるLGBT団体の設立が活発化しました。1984年には「IGA日本」が設立され、1987年には「ILGA日本」として初の総会を開催しました。また、IGA日本から独立した「OCCUR」(後の「動くゲイとレズビアンの会」)が1986年3月に発足しました。これらの団体は国際ゲイ連盟(ILGA)の支部として、または独自の活動を通じてLGBTコミュニティの支援と権利向上を目指しています。

IGA日本は、月1回のセミナー開催、機関誌「JOIN」の発行、エイズ110番の設立など多岐にわたる活動を行っていました。また、四谷には「IGAクラブ」という賛同者が気軽に立ち寄れるパブリックスペースも設けられていました。1986年5月には「第1回アジアゲイ会議」を主催しています。ILGA日本の活動が長続きした理由としては、世界組織の日本支部としての地位と、ゲイ雑誌などの経済基盤があったためとされています。

後にILGA日本は、国内初の「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」やゲイ・パレードの立ち上げに中心的な役割を果たしました。また、1985年には東大阪市の長瀬に「上方DJ倶楽部」が設立され、DJ形式でトークなどの様々なイベントをカセットテープに収録し、ゲイのポジティブなイメージの普及を目指しました。この時代のゲイコミュニティの活動は、HIV(エイズ)予防という側面も持っていました。

1950年代から60年代にかけてのミニコミブームを経て、1970年代はゲイリベレーションが始まる時代となりました。1980年代には多くのグループが設立され、機関紙も発行されるようになりました。これにより、欧米の市民運動型の解放運動の戦略が取り入れられ、1990年代にかけてその基盤が形成されました。

欧米ではマルクス主義の影響を受けたレスビアン・ゲイ・スタディーズが発展しましたが、日本では1990年代までこの分野の研究はほとんど行われておらず、行われていた研究も多くが病理的な観点からのものでした。しかし、これは欧米の研究を単に借用したに過ぎず、南方熊楠の浄の思想、岩田準一の衆道研究、稲垣足穂の稚児愛の考察、三島由紀夫の葉隠論など、日本独自の同性愛研究も存在していました。

17.エイズが吹き荒れた時代(1980年代)

1980年代、エイズの問題が全世界的に注目された時期で、日本でも1985年に初のエイズ患者が報告された後、特にゲイコミュニティ内での状況が劇的に変化しました。当時はエイズに対する有効な治療法がなく、感染がほぼ必ず死に至るとされていました。これにより、「エイズパニック」と呼ばれる社会的動揺が引き起こされ、エイズを男性同性愛者に特有の病気と見なす強い偏見が広まりました。

エイズに対する1980年代の偏見は、主に3つの要因により醸成されました。第一に、1980年代初頭、アメリカの男性同性愛者間で原因不明の奇病が発生しているとメディアが報じたこと、第二に、1985年3月に厚生省と順天堂大学付属病院が、欧米在留経験のあるゲイ日本人アーティストをエイズ患者第一号に仕立て上げようとしたこと、第三に、同年8月に行われた血液検査の結果が「同性愛者の5%がHIV陽性」と恣意的に報道されたことが挙げられます。これらの事象が、エイズを同性愛者特有の病とする偏見の形成に寄与しました。実際の検査では、参加した日本人の中でHIV陽性だったのは1人のみで、他の4人はアメリカ人でした。これらのアメリカ人はすでに米国でHIV陽性であることを知っており、日本での検査はその再確認のためだけに行われました。この事実が、報道された内容との間に大きなギャップがあったことを示しています。

エイズの原因や感染経路がはっきりと分かっていなかった当初、誤解も多く、男性同士で握手をするだけでエイズに感染するといった誤った情報が流れました。実際にはゲイコミュニティの中で感染者が多く見られたため、ゲイ雑誌や団体ではHIV感染予防と啓発に力を入れていました。毎号HIV問題を取り上げ、安心して血液検査が受けられるゲイフレンドリーな病院の紹介やセーフセックスの推奨、東京都衛生局と共同でエイズに関する広報活動を行い、HIV陽性者のサポートグループも生まれていきました。

18.ゲイリベレーションの大衆化(1990年代)

1990年代に入ると、日本を含む世界各地で同性愛に関する医学的・法的見解が進展しました。1973年には米国精神医学会が同性愛を精神障害のカテゴリーから除外し、1990年にはWHOも同性愛の分類を廃止し「性的指向自体は障害と考えられるべきではない」と宣言しました。1993年には同性愛が治療の対象ではないと再宣言し、日本でも1994年に厚生省がWHOの見解を受け入れ、文部省が同性愛を「性非行」の項から除外しました。1995年には日本精神神経学会もWHOの見解を尊重すると発表しました。

1990年代に入ると、日本のメディアでも同性愛者について積極的に取り上げる動きが見られるようになりました。特に「東京都府中青年の家裁判」などを通じて、同性愛者の人権が社会的に認知され始め、辞典や出版物の記述も改善されていきました。この時期には、以前は同性愛を問題視していた京都大学霊長類研究所長でセクソロジストの大島清も、同性愛を尊重すべきだという考えに改めるなど、意識の変化が見られました。

1992年には第1回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭が開催され、1994年には日本初のレズビアン&ゲイパレードが行われました。このパレードはアジアで2番目に早く開催されたものです。また、教育現場でもゲイ教師がカミングアウトし、講演活動が行われるようになりました。同時期にはトランスジェンダーやインターセックスの団体も現れ、LGBTの認知と理解が広がっていきました。

1992年には、日本の学校の性教育授業で使用される副教材「ひとりで ふたりで みんなと」(小学生用)および「おとなに近づく日々」(中高生用)が同性愛に触れました。しかし、2000年代前半に東京都教育委員会により「不適切教材」と判断され、これらの教材は廃刊となりました。同性愛に言及していた部分については同性愛者の間でも意見が分かれ、一部は過激な性表現に批判的であったとされています。

1990年代には、新しいゲイ雑誌「Badi」と「G-men」が創刊され、日本全国に多くのゲイサークルやゲイ団体が誕生しました。「Badi」は特に、これまでメディアにあまり登場しなかったゲイコミュニティの一員を積極的に顔が見える形で紹介し、その存在を可視化しました。この時期はインターネットの普及も進んでおり、個人が情報を発信する機会も増えていましたが、雑誌を通じてゲイが公に紹介されるのは新しい動きでした。2000年1月号のサークルメンバー募集覧には合計41件の募集が掲載されており、スポーツ系ではバレーボールが5件、テニス2件、武術とダイビング、バドミントン、ボウリングがそれぞれ1件ずつでした。また、イベント系の募集が8件、音楽系が3件とされており、ゲイコミュニティ内で多岐にわたる趣味や活動に参加する機会があることを示しています。

1990年代以降、大規模なパレードやHIV啓発イベントがゲイリベレーションの大衆化を推進しました。また、新興のゲイ雑誌が創刊されることで、同性愛者のイメージが広がりました。インターネットの普及により情報量が飛躍的に増加し、これが同性愛者コミュニティの自己認識や公共の理解に大きな変化をもたらしました。

19.現代

日本では、2001年以降、異性間のHIV感染によるエイズ発症者数は横ばいを保っている一方で、男性同性間の感染による発症者数が顕著に増加しています。特に2004年には異性間感染の発症者数を超え、その後も増加が続いています。この状況に対応するため、NPOなどと協力してHIV感染の予防啓発の取り組みが強化されており、HIV陽性者の就業支援などのサポートも各自治体によって行われています。

2000年には新木場殺人事件が起きました。この事件は、同性愛者を狙った犯罪で、1人が殺害され、被害届が数十件に及び、ゲイコミュニティに大きな衝撃を与えました。この事件を受けて、2001年に人権擁護推進審議会が答申を出し、性的マイノリティに関する人権擁護を言及しました。提出された人権擁護法案は、日本で初めて性的マイノリティの人権救済を明記した法案となりました。

2003年に開催されたレインボーマーチ札幌には、札幌市長の上田文雄が参加しました。これは日本の地方自治体の首長がLGBTイベントに参加した初めての例でした。また、2011年の地方統一選挙で、豊島区議会には石川大我が、中野区議会には石坂わたるが当選し、日本で初めてゲイを公表している議員となりました。

2000年代から2010年代にかけて日本の複数の政党が性的少数者の権利拡充に関する政策を盛り込んだ選挙公約を掲げました。2000年に社会民主党、2007年に日本共産党、2009年に公明党、そして2012年にみんなの党が国政選挙でこれらの公約を提示しました。また、日本維新の会は公約には明記していませんが、2012年の「レインボープライド愛媛」で行われたアンケートにおいて、人権問題として性的少数者の問題に取り組む意向を示し、同性結婚の制度導入にも賛成を表明しています。

20.同性愛に対し肯定的な時代へ

日本における同性愛に対する見方は年々肯定的に変化しています。電通総研の調査によると、2005年には同性愛を認める人が40%であり、その後10年ごとに10%ずつ増加しています。

さらに、ピュー・リサーチ・センターの2013年の調査では、同性愛を認める回答が全体で54%に達しました。特に若年層では支持が高く、18歳から30歳未満で83%、30歳以上50歳未満で71%が同性愛を肯定しており、50歳未満の層では約8割が支持しています。

まとめ

本記事では、日本における同性愛の歴史を解説させていただきました。このようにして見ると、日本も以前は同性愛が当たり前のように受け入れられていたことが分かりますね。そして、徐々にまたLGBTに優しい時代へ向かいつつあるのも分かります。

非常に長い記事となってしまいましたが、最後まで読んで下さりありがとうございました。

【参考記事】