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本記事では世界を中心に同性愛の歴史をまとめていきます。同性愛の歴史について調べている方、参考にしてみてください。日本の同性愛の歴史は『こちら』をご覧ください。

初めに
IRISでは、あらゆるマイノリティが暮らしやすくなることを目指すという意味から「LGBTs」と表記していますが、今回は一般的な「LGBT、LGBTQ+」について解説するため、表記が混在しております。

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世界の同性愛の歴史

紀元前

紀元前9600年から5000年にかけてのシチリア島中石器時代の岩絵には、男性同士がペアで描かれた男根の像があります。これらの岩絵は狩猟者、曲芸師、宗教の修練者、男性の同性愛など様々に解釈されています。

紀元前25世紀から紀元前24世紀にかけて、エジプト第5王朝時代にカーヌムホテップとニアンカーカーヌムの墓が建てられました。この2人の男性は恋人同士であったという説があり、史上最古の同性愛関係の記録とされています。

紀元前630年、ドーリア人の貴族はクレタ島で成人の王子と未成年の少年との間の少年愛関係を正式に採用しました。この習慣には若者の教育と人口増加の抑制という2つの目的があったとされます。古代ギリシアでは少年愛が広く見られ、スポーツ、文学、政治、哲学、芸術、戦争に大きな影響を及ぼしました。また、この文化はギュムナシオン(体育館兼学校)や運動選手が全裸である習慣とも関連しています。

紀元前600年頃、レズビアンとレスボス島という用語が初めて使われるようになりました。紀元前338年、150組の男性同性愛カップルで構成されたテーバイの神聖隊はマケドニアのピリッポス2世に敗れましたが、ピリッポス2世は彼らの栄誉を讃えました。紀元前80年には、ガイウス・ユリウス・カエサルがビテュニアの王ニコメデス4世との情事が伝えられています。紀元前27年に始まったアウグストゥスのローマ帝国の治世では、史上初めて記録された同性結婚が行われました。

1世紀から10世紀

54年にネロがローマ皇帝に即位した際、ネロは2人の男性と法的な儀式を通じて結婚しました。これらの結婚のうち少なくとも1人は皇后と同じ栄誉を認められたとされています。ネロのこの行動は、当時の社会規範とは異なる大胆な振る舞いとされています。

98年にローマ皇帝として即位したトラヤヌスは、同性愛や若い男性への愛情で知られています。彼の愛情は、エデッサの王アブガル7世によって利用されました。アブガルはトラヤヌスの怒りを買い、美しい若い息子を送り、謝罪して許しを求めたとされています。

130年にハドリアヌス帝が愛していたアンティノウスがナイル川で溺死しました。悲しみに暮れたハドリアヌス帝はアンティノウスを神格化し、アンティノウスを記念して多くの彫像を作らせました。アンティノウスの肖像はその後、古代の美の象徴として数多く残され、皇族以外で神格化された最後の人物とされています。

218年にヘリオガバルス帝の治世が始まり、彼はスミルナ(現在のイズミル)出身の運動選手であるゾティクスと結婚しました。この結婚式はローマ市民によって祝われ、豪華な儀式が行われたとされています。

342年、同性愛は多くの古代文化で一般的に受け入れられていましたが、キリスト教の広がりとともに同性愛に対する否定的な見方が増え始めました。この変化を象徴する出来事として、キリスト教徒の皇帝コンスタンティウス2世とコンスタンス1世が同性結婚を禁止する法令を発布したことが記録されています。

390年に、キリスト教徒の皇帝ウァレンティニアヌス2世、テオドシウス1世、そしてアルカディウスは、同性間の性交を違法と宣言し、有罪とされた者は公衆の面前で生きたまま火炙りにするという極めて厳しい刑罰を定めました。

498年に、キリスト教徒の皇帝アナスタシウス1世が男娼から徴収していた税金を廃止しました。この時まで、男性同性間の性交を禁じる法令が存在していたにも関わらず、税金が徴収されていたのです。

529年、キリスト教徒の皇帝ユスティニアヌス1世は同性愛者を「飢饉、地震、疫病」のような社会的な問題の原因にしました。

589年、西ゴート王国がアリウス派からカトリックへの改宗を行いました。この宗教的転換に伴って、王国の法律もカトリック諸国の法体系に合わせて改定され、その改定法には男性同性愛者とユダヤ人を迫害するための規定が含まれていました。

800年から900年のカロリング朝ルネサンス期に、修道士アルクィンは、同性愛を断罪する教会法が数多く存在する中で、他の修道士宛てに愛の詩を書きました。

11世紀から15世紀

1000年から1100年の11世紀にかけての東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、中世初期の法令集が示すように、同性結婚が社会において広く知られ、法的に認められていたことが明らかになっています。

1000年から1100年のスカンディナヴィアでは、宗教的な異性装が数世紀にわたって行われていました。また、この時代には父親の土地を相続した息子だけが結婚する資格があり、それ以外の息子は土地を離れ、戦士の集団に加わることが求められました。厳格な純潔が女性に期待され、女性との接触が限られていたため、これらの戦士たちの間では少年愛が1つの制度化された生活様式として広まっていました。

1051年に聖ペトルス・ダミアニは『ゴモラの書』を著し、同書で彼は聖職者を含む社会全体で広がる同性間の性交を詳細に批判しました。彼はこれを重大な罪として停止させるべきだと訴えましたが、当時のローマ教皇レオ9世は同性愛を重罪と認識しつつも、ダミアニが望むような厳しい罰を支持することには消極的でした。

1100年、シャルトルのイヴォはローマ教皇ウルバヌス2世に同性愛の危険性を訴えました。彼はフランス国王がオルレアン司教にジョンを任命したことを問題視し、その背景にジョンとトゥール大司教ラウル(またはラルフ)の恋愛関係があると告発しました。国王自身もジョンとの関係を公然と誇っていましたが、ウルバヌス2世はこれを重大な問題とは見なしませんでした。ジョンは約40年間司教として仕え、ラウルは尊敬され続けました。

1102年、ロンドン教会会議が同性愛を罪深いものとして広く知らしめるための措置を講じました。これにより、同性愛に対する教会の態度が大きく変わりました。以前は教会は同性愛に対してほとんど関心を示さず、同性愛行為を軽い罪とみなしていましたが、クリュニーのバーナードのような道徳改革者たちが教会の態度変化を促したとされています。

1250年から1300年の間に、ヨーロッパの多くの国で同性愛行為の法的扱いが大きく変化しました。ジョン・ボズウェルによると、この期間には同性愛行為が合法的な行為から、一部の国では死刑に処されるほどの重罪へと見なされるように変わったとされています。しかし、ボズウェルのこの主張には他の歴史学者から異議が唱えられているため、解釈には留意が必要です。

1327年、イングランドのエドワード2世は廃位後、残酷な方法で暗殺されたと言われています。彼の死因については、肛門に焼けた火箸を差し込まれたとの伝承があります。エドワード2世は、貴族との対立が激しく、特に彼の恋人だったコーンウォール伯ピアズ・ギャヴェストンとの関係が貴族たちの怒りを買っていました。このような背景が彼の悲劇的な終焉につながったと考えられています。

1370年代にアントウェルペンで、Jan van AersdoneとWillem Caseという2人の男性が、同性間の性交で処刑されました。中世ヨーロッパでは同性間の性交が違法であり、厳しく罰されていました。彼らの事件は記録に残っており、同時期にヴェネツィアでもGiovanni BraganzaとNicoleto Marmagnaというカップルが知られています。

16世紀から18世紀

1533年にイングランド王ヘンリー8世はソドミー法を制定しました。この法律は、ソドミーを生殖に関与しない性行為と定義し、犯罪と宣言しています。この法律の対象となる性行為には、ジェンダーに関係なく、オナニー、アナルセックス、オーラルセックスが含まれていました。

1624年、バージニア植民地でリチャード・コーニッシュがソドミー罪で裁判にかけられ、絞首刑に処されました。この事件は、当時の植民地社会における同性愛に対する法的取り扱いと社会的態度の厳しさを示しています。コーニッシュの裁判と処刑は、アメリカにおけるLGBT歴史の重要な事例の1つとされています。

1649年3月にレズビアン行為に対して北アメリカで初めて有罪判決が出ました。Sarah White Normanは、マサチューセッツ州で、Mary Vincent Hammonとベッドの上で淫らな行為をしたと告発されました。Mary Vincent Hammonのほうは16歳未満だったので起訴されませんでした。

1716年、日本で『葉隠』が公表されました。この書は武士道に関する教えを集約しており、武士の倫理や行動規範を詳述しています。この中には男色(同性間の愛情や関係)に関する作法も含まれています。

1726年、ロンドンのマザー・クラップが運営するモリー・ハウス(同性愛者の社交場)が摘発されました。この強制捜査の結果、マザー・クラップは亡くなり、逮捕された男性たちはタイバーンで処刑されました。

1730年から1811年にかけて、ネーデルラント連邦共和国では同性愛行為(ソドミー)に対する大規模な裁判が行われました。この時期、特に1730年から1737年、1764年、1776年、1795年から1798年にかけては、同性愛行為に対する起訴が特に厳しい時代でした。

1779年にアメリカのトーマス・ジェファーソンはバージニア刑法典の草案を準備しました。この草案には、ソドミー罪に対する非常に厳しい罰が提案されており、男性は去勢されること、女性には鼻に穴を開けることが構想されていました。

1791年にフランス革命政府は新しい刑法典を採用し、この法典によりソドミー罪は犯罪ではなくなりました。これによってフランスは西ヨーロッパで最初に合意に基づく成人間の同性愛行為を非犯罪化した国となりました。この法的変更は、性的自由に関する見解の進化を示す重要な歴史的出来事であり、その後の他国の法律改正にも影響を与えたとされています。

1795年、ルクセンブルクとトスカーナ大公国は同性愛行為を非犯罪化しました。これにより、これらの地域はヨーロッパで性的指向に基づく犯罪の概念を撤廃する先進的な措置を採用した国となりました。

19世紀

1811年、オランダでも同性愛行為が非犯罪化となりました。

1828年にアメリカ合衆国の刑法で「自然に反する罪」という用語が初めて用いられました。この用語は主に同性間の性行為を指し、この時期に法的に罰するための表現として導入されたものです。これにより、同性愛行為は公式に法的な犯罪とみなされるようになりました。

1830年にはブラジルが同性愛行為を非犯罪化しました。同年、「無性愛」という単語が生物学の用語として初めて用いられるようになりました。

1832年にはロシアが新しい刑法の第995条で同性愛行為を犯罪とし、5年以下のシベリア流刑に処すことを定めました。

1835年には、ロシア帝国の支配下にあったポーランド立憲王国が史上初めて同性愛を違法化します。

1836年にはイギリスで同性愛に対する最後の処刑が行われました。

1852年にはポルトガルが同性愛行為を非犯罪化しました。

1858年にオスマン帝国(現在のトルコやイラクを含む)がソドミーを非犯罪化しました。同年、ポルトガル領ティモールも同性愛を合法化しました。

1861年にはイギリスがソドミー有罪判決の際の刑罰を絞首刑から懲役刑に軽減しました。

1863年にはイギリスが人に対する犯罪法を改正し、ソドミーに対する死刑を廃止し、刑罰を10年以上の懲役または終身刑に変更しました。

1865年にはサンマリノがソドミーを非犯罪化しました。

1871年、ドイツではドイツ刑法第175条によって同性愛が犯罪とされました。この法律は1994年まで施行されました。同年、グアテマラとメキシコは同性愛行為を非犯罪化しました。

1880年、日本は同性愛行為中の肛門性交だけを違法としていた規定を廃止し、非犯罪化しました。これにより、日本では唯一の、同性愛行為の一部が犯罪とされた短期間が終了しました。

1886年、イングランドでは男性同士の性関係を禁止する刑法改正法がヴィクトリア女王の承認を受けましたが、女性同士の関係については規定がありませんでした。同年、アルゼンチンは同性愛を非犯罪化しましたが、ポルトガルは同性愛行為を再び犯罪としました。

1889年にはイタリアが同性愛を合法化し、同じ年にイングランドでクリーヴランド街スキャンダルが発生しました。このスキャンダルは高官や貴族が関与した同性愛売春の問題を露呈しました。

1892年、Charles Gilbert Chaddockによるリヒャルト・フォン・クラフト=エビングの著書『性の精神病理』の英訳版にて、現代の意味で「両性愛」と「異性愛」の用語が初めて使用されました。

1894年6月23日、生物学者で性科学の先駆者であるアルフレッド・キンゼイが誕生。

1895年、オスカー・ワイルドが1885年刑法改正法に基づき猥褻行為の罪で裁かれ、2年の懲役判決が下されました。

1897年5月14日、マグヌス・ヒルシュフェルトがドイツ刑法第175条の廃止を求める科学人道委員会を創設し、同性愛者の権利擁護に向けた活動を組織的に展開し始めました。同年、ジョージ・セシル・アイヴズがイングランドで初の同性愛者権利団体、カイロネイア団を組織しました。

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1990年代

1903年2月21日、ニューヨーク市警察がアメリカ合衆国で初めて発展場のAriston Hotel Bathsを強制捜査しました。この捜査で26人の男性が逮捕され、そのうち12人がソドミーの罪で裁判にかけられました。裁判の結果、7人には4年から20年の懲役が言い渡されました。

1907年4月、ドイツでハルデン=オイレンブルク事件が発生しました。この事件は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の重臣の同性愛を告発するものでした。事件に関連して、ドイツ刑法第157条の廃止を求める活動を行っていた自己協会(Gemeinschaft der Eigenen)のリーダー、アドルフ・ブラントがドイツ帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー公爵を公に同性愛者だと告発しました。公爵は名誉毀損でブラントを告訴し、ブラントは18ヶ月の懲役刑を受けました。

1910年代

1910年、社会活動家エマ・ゴールドマンが初めて公に同性愛者の権利を擁護する発言をしました。

1913年、オレゴン州ポートランドで出版された犯罪に関する隠語集において、「ファゴット(faggot)」という単語がゲイを指す用語として初めて記載されました。文中で「今夜の舞踏会で全てのファゴットが女装しているだろう」という文脈で使用されています。この用法は、男性同性愛者に対する差別的なニュアンスを含む言葉としての側面もあり、後に蔑称として広まる起点の1つとなりました。

1917年、ロシアの10月革命が起こると、ロシア帝国の従来の刑法が廃止されました。この中には、同性愛行為を犯罪としていた第995条も含まれており、革命後の法体系再編により、第995条を含む従来の刑法が廃止となりました。

1920年代

1920年、GAYという単語が、アンダーグラウンド文化において同性愛者を指す言葉として初めて使用されました。男性同性愛者が内密にコミュニケーションを取り合う際に使う隠語として機能していたとされています。

1921年、イングランドにおいて史上初めて女性同性愛を犯罪とする法案が提出されましたが、成立せずに終わりました。この試みは、女性同性愛者に対する法的な規制を設けようとしたものであり、同性愛者に対する見方と法的対応がいかに変遷しているかを示す出来事でした。

1922年、ソビエト連邦で新しい刑法が施行され、公式に同性愛行為が非犯罪化されました。

1923年に出版されたNels Andersonの『ホーボー』において、「ファッグ」(fag)という単語がゲイを指す言葉として出版物で初めて使用されました。書籍内の該当箇所では、「フェアリーまたはファッグ」とは、利益のために自らの性を利用する男性を指すと記述されています

1924年、アメリカ合衆国シカゴで同性愛者の権利を主張する最初の組織である人権協会が創設されました。この組織は警察の介入により数ヶ月後に活動を停止しました。同年、パナマ、パラグアイ、ペルーで同性愛が合法化しました。

1928年、アメリカ合衆国でラドクリフ・ホールによる小説『さびしさの泉』が出版されました。この作品は、同性愛を主題としており、出版後に大きな法的論争を引き起こしました。その結果、同性愛というテーマが一般の人々の会話の中で注目されるようになり、社会的な議論を呼び起こすきっかけとなりました。

1929年、ドイツでの重要な出来事が2つありました。5月22日には「アメリカ・ザ・ビューティフル」の作詞者であるキャサリン・リー・ベイツが亡くなりました。また、10月16日にはドイツ国会の委員会が、同性愛を犯罪とする刑法第175条の廃止を投票で決定しましたが、台頭していたナチスがこの決定の実施を妨げ、廃止には至りませんでした。

1930年代

1930年、デンマークは新しい刑法を通じて同性愛を非犯罪化しました。この法律は1933年に正式に発効になりました。

1932年、ポーランドでは新しい刑法により、国全域で同性愛が非犯罪化されました。

1933年、ナチスが政権を握ると、同性愛者の団体を禁止し、多くの同性愛者を強制収容所に送りました。また、性科学の先駆者であるマグヌス・ヒルシュフェルトの性科学研究所も破壊され、図書室は焼き払われました。同年、デンマークとフィリピンは同性愛を非犯罪化しました。また、ソ連で再び同性愛行為が犯罪になりました。

1934年、ウルグアイは同性愛を非犯罪化しました。この措置によって、ウルグアイはラテンアメリカで同性愛を合法化した先進的な国の1つとなりました。

1936年、スペインの著名な詩人であるフェデリコ・ガルシーア・ロルカは、スペイン内戦の勃発時に銃殺されました。フェデリコ・ガルシーア・ロルカは、作品の内容から同性愛者であったと言われています。

1937年には、ナチスの強制収容所でゲイの男性に「ピンク・トライアングル」のマークが初めて用いられました。このマークは、ナチスが異性愛者以外の人々を強制収容所で識別するために用いた複数の色の三角形マークの1つで、ゲイ男性を示す象徴とされました。このシステムは、非常に残酷な差別と迫害の象徴として後に広く認知されることとなります。

1940年代

1940年、アイスランドは同性愛を非犯罪化しました。この法改正により、アイスランドは性的指向に基づく刑事罰を撤廃した国の1つとなりました。

1941年に、「性転換願望」という用語が公式な文献において、同性愛や両性愛を指す言葉として初めて使用されました。

1942年、スイスでは同性愛が非犯罪化されました。同性間の性的行為は合法とされ、性交同意年齢は20歳に設定されました。

1944年には、スウェーデンが同性愛を非犯罪化しました。同性間の性的行為が合法化され、性交同意年齢は20歳に設定されました。同じ年にスリナムでも同性愛が合法化されました。

1945年、連合国軍によってナチスの強制収容所に収容された人々が解放されました。しかし、同性愛が理由で収容されていた人々は、ドイツ刑法第175条に基づく判決で定められた刑期が終了するまで、自由にはならずに服役を続けることを求められました。同年、ポルトガルでは国史上2回目となる同性愛の非犯罪化が行われました。

1946年、オランダで「COC(文化・余暇センター)」という組織が創設されました。これは現在まで存在するLGBT擁護組織の中で最も古いものの1つで、同性愛者の権利擁護と文化的な活動を支援することを目的としています。

1947年、北アメリカで初のLGBT関連出版物「ヴァイス・ヴァーサ」(Vice Versa)がロサンゼルスでイーディス・エイディーによって書かれ、自費出版されました。

1948年、デンマークで同性愛者団体「1948年連盟」が設立され、LGBTの権利を主張する組織として活動を開始しました。同年、ポーランドの共産主義政権は性交の同意年齢を15歳に設定し、これには同性愛および異性愛の行為が含まれていました。

1950年代

1950年にスウェーデンでは、スウェーデン・レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー権利連合(RFSL)が設立され、LGBTの権利を支持する動きが強まりました。同年、東ドイツではナチスによる改正された刑法第175条が部分的に廃止され、一部の同性愛行為に対する罰則が軽減されました。また、アメリカ合衆国ロサンゼルスではマタシン協会(マタチーネ協会)が創設され、これがアメリカ初の同性愛者団体となりました。しかし、アメリカではこの年に「ホモ狩り」が始まり、政府機関から190人が性的指向を理由に解雇される事態が発生しました。

1951年にはギリシアが同性愛を非犯罪化しました。

1952年は、日本やアメリカにおいてLGBTQ+ コミュニティ向けの重要な出版物や組織が設立された年でした。9月10日には日本で初の会員制ゲイ雑誌「アドニス」が創刊されました。この雑誌は、アドニス会という戦後初の男性同性愛サークルによって発行され、三島由紀夫や中井英夫、塚本邦雄などが寄稿しました。同年、アメリカのカリフォルニア州ではLGBT権利擁護の非営利組織ONE, Inc.が創設され、またデール・ジェニングズが犯罪教唆の誤った起訴から自身を防御するための戦いに成功しました。

1954年、アラン・チューリングは同性愛に対する不当な処罰の後、青酸中毒で亡くなりました。彼は1年間の保護観察と性欲を減退させるホルモン治療を受けてから18ヵ月後に死亡しました。同年、フランスでは初の同性愛者団体「アルカディー」が設立されました。この団体は1982年に解散するまで活動を続けました。

1955年、サンフランシスコで「ビリティスの娘たち」が創設されます。この組織はレズビアンの権利を支持し、レズビアンコミュニティの可視化と受容を促進するために活動しました。

1956年には、タイ王国が同性愛行為を非犯罪化しました。

1957年には重要な出来事がいくつかありました。まず、「トランスセクシュアル」という単語がアメリカの外科医ハリー・ベンジャミンによって作り出されました。イギリスではウォルフェンデン委員会のレポートが公表され、合意に基づく成人同士の同性間性行為の非犯罪化を勧告しました。また、心理学者エヴェリン・フーカーは同性愛者の男性が非同性愛者の男性と同様に社会に適応していることを示す研究を発表し、これが後にアメリカ精神医学会が同性愛を精神疾患のカテゴリーから外す要因の1つとなりました。

1958年にはイギリスで同性愛法改革協会が創設されました。この協会は同性愛者の法的権利の向上を目指し活動を開始しました。また、同年にはバーバラ・ギッティングズがアメリカの「ビリティスの娘たち」のニューヨーク支部を設立しました。

1959年に日本の大阪で、毛利晴一氏によって会員制の男性同性愛雑誌「同好」(同好趣味の会)が創刊されました。この雑誌は男性同性愛者向けに発行され、ピーク時には会員数が1,000人を超えるほどの人気を博しました。

1960年代

1960年に日本で、男性同性愛者向けの専用ページや女装専用ページを常設したSM雑誌「風俗奇譚」が創刊されました。

1961年、チェコスロバキアとハンガリーがソドミーの非犯罪化を実施しました。同年、ローマ教皇庁は「同性愛に対してよこしまな性癖に影響されている者」は聖職者になることも叙任されることも許されないと宣言しました。また、ホセ・サリアはアメリカ合衆国で自分がゲイであることを公にし、公職候補として市政委員に当選しました。これはアメリカでゲイとして公職に選ばれた最初の例です。

1962年に、イリノイ州はソドミー法を刑法から除外したアメリカ合衆国の最初の州となりました。

1963年、イスラエルにおいて、1936年のイギリス統治時代に制定された法律に基づくソドミーと男性同士の性行為に関連する条項の執行を拒否する裁判所の判決が出されました。事実上、ソドミーと、男性同士の性行為が非犯罪化されたことになります。

1966年、ニューヨークマタシン協会は、ニューヨーク州のアルコール規制に対抗し、「シップ・イン」と呼ばれる抗議行動をジュリアスバーで行いました。これは、公然と同性愛者であることを宣言した後にバーでアルコールを注文するというものです。同年、同性愛擁護のための全国計画会議が結成され、後に北米同性愛擁護組織会議(NACHO)となります。また、コンプトンズ・カフェテリアの反乱がサンフランシスコで発生し、トランスジェンダーと警察との衝突が起こりました。

1967年、チャドは同性愛を非犯罪化しました。同年、イングランドとウェールズでは1967年性犯罪法により、男性間の私的かつ合意のある性行為が非犯罪化されます。また、ウェインライト・チャーチルは『男性の間での同性愛行為』を出版し、同性愛を科学的に研究する動きを促し、「ホモフォビア」を指摘する前駆的な概念「ホモエロトフォビア」を導入しました。

そして、ニューヨーク市で、世界初の同性愛者向け書店であるオスカー・ワイルド書店が開店しました。アルゼンチンではラテンアメリカ初の同性愛者団体「われらの世界」が創設され、同性愛者の権利運動に新たな動きを加えました。ロサンゼルスのBlack Cat Tavernでの警察の強制捜査は、同性愛者の権利運動をさらに推進する事件となりました。コロンビア大学では、学生による同性愛擁護連盟がアメリカで初めて公式に認められたゲイ学生団体となりました。

1968年4月15日、同性愛を題材にした演劇『真夜中のパーティー』がニューヨークのオフ・ブロードウェイで初演されました。また、法的な進展として、東ドイツでは18歳以上の同性愛行為が刑法第175条によって非犯罪化され、ブルガリアも成人の同性愛関係を非犯罪化しました。

1969年6月28日から7月にかけて、ニューヨークのストーンウォールインで警察の踏み込みに対する抗議が発生し、ゲイ解放運動の象徴的な出来事となった「ストーンウォールの反乱」が起きました。また、西ドイツでは同性愛行為に関する法律、刑法第175条が緩和されました。カナダでは同性愛行為の法的枠組みが変更され、ソドミーについては性的同意年齢が21歳、非ソドミーは14歳と設定されました。ポーランドでは同性間の売春が非犯罪化され、カナダの首相は「政府は国民の寝室には立ち入らない」と発言し、これが広く引用されるようになりました。また、オーストラリアのメルボルンでは、同性愛者の権利を擁護する組織「ビリティスの娘たち」のオーストラリア支部が設立されました。LGBTお部屋探し

1970年代

1970年、コソボで同性愛が非犯罪化されました。また、アメリカ各地で、ゲイの権利を求める活動が行われました。ニューヨーク市では、ゲイ・リベレイション・デイ・マーチが、ロサンゼルスでは、ゲイ・フリーダム・デイ・マーチが、そして、サンフランシスコでは、ゲイ・インが行われました。オーストラリアでは、CAMP(Campaign Against Moral Prosecution、道徳的起訴反対キャンペーン)が組織されました。

1971年6月27日、日本で東郷健氏が参議院議員選挙に立候補し、同性愛者であることを公にしました。7月には、日本初の商業ゲイ雑誌「薔薇族」が創刊されます。同じく、メルボルンではソサエティ・ファイブという同性愛者権利組織が結成されました。また、コロラド州とオレゴン州がソドミー法を廃止しました。一方で、アイダホ州もソドミー法を廃止しましたが、モルモン教徒とカトリック信者の反発により、後にその法律が復活されました。同年、オランダでは同性愛の性的同意年齢を16歳に統一し、これにより異性愛と同じ基準に改正されました。

1972年、スウェーデンは世界で初めてトランスセクシュアルの性別変更を法的に認め、無料でホルモン治療を提供するようにしました。また、同国は同性間の性的同意年齢を異性間と同じ15歳に統一しました。同年、ハワイ州が同性愛を合法化し、南オーストラリア州では労働党のドン・ダンスタン政権のもと、私生活における同意成人という抗弁を導入しました。これはマリー・ヒルが提出した法案に基づくもので、後に州のソドミー法廃止につながります。

1973年にはノルウェーが同性愛を非犯罪化しました。同年、ミシガン州のイーストランシング、アナーバー、およびサンフランシスコがアメリカ合衆国で最初に同性愛者の権利条例を制定した都市となりました。さらに、サンフランシスコのジム・フォスターとニューヨーク州バッファローのマデレン・D・デイヴィスが民主党大会にてゲイとレズビアンとして初めて代表となり、民主党綱領に同性愛者の権利を含めることを主張する歴史的な演説を行いました。

1974年、キャシー・コザチェンコがアメリカ人として初めて、同性愛者であることを公表した上で公職に選ばれ、アナーバー市議会議員となりました。また、オハイオ州ではソドミー法が廃止されました。アメリカでは、ロバート・グラントがゲイ・アジェンダに反対する目的でアメリカン・クリスチャン・コーズを創設しました。アメリカ現代キリスト教政治の始まりです。

ロンドンにて初のLGBT向けの電話相談サービス「ロンドン・レズビアン・ゲイ電話交換台」が設立されます。翌年、ブライトンにも同様のサービス「ブライトン・レズビアン・ゲイ電話交換台」が開設され、これがコミュニティの支援基盤を強化することに貢献しました。同じ頃、トロントでは「ブランズウィック・フォー」と呼ばれる4人のレズビアンが逮捕される事件が発生し、これがトロントのゲイおよびレズビアンのコミュニティに新たな活力をもたらしました。

1975年、エレイン・ノーブルがアメリカ人としては2番目に同性愛者であることを公表して公職に選ばれ、マサチューセッツ州議会下院議員となります。この年、南オーストラリア州はオーストラリアで最初に同意成人間の私生活における同性愛を合法化した州となりました。また、パナマは性別適合手術を受けたトランスセクシュアルに新しい性別を反映した個人用文書の交付を認める世界で2番目の国となりました。

1976年、ロバート・グラントはアメリカ合衆国で同性愛者の権利に反対する全国的な運動を展開するため、クリスチャン・ボイスを創設しました。一方、オーストラリアでは同性愛法改革連合およびゲイ教師グループが設立され、LGBTの権利向上と教育の場における支持を目指し活動を開始しました。また、オーストラリア首都特別地域は、私生活における成人間の同性愛行為を非犯罪化し、性的同意年齢を異性愛の場合と同一に設定しました。同様に、デンマークでも同性愛と異性愛の性的同意年齢が統一されました。また、11月には日本で「日本同性愛者解放連合」というゲイ団体が結成され、10人近いメンバーで数年間活動を続けました。

1977年3月、日本で「フロントランナーズ」というゲイ団体が結成され、小規模ながらも活動的なグループとして数年間活動しました。5月には、既存のゲイ雑誌に対する不満から、ゲイリベレーションをテーマにした新しいゲイマガジン『プラトニカ』が創刊され、これを母体に「プラトニカ・クラブ」が結成されました。このクラブは後に「JGC」(Japan Gay Center)へと発展し、機関紙『GAY』や『CHANGE』などを発行しました。サンフランシスコでは、ハーヴェイ・ミルクが市会議員に選出されました。ミルクは在野から同性愛者であることを公表し、公職に立候補して選出されるというアメリカ史上初のケースとなりました。同年、フロリダ州マイアミ・デイド郡では人権条例が制定されましたが、アニタ・ブライアントが率いる反同性愛者人権運動により後に廃止されるという出来事がありました。また、カナダのケベック州は公的および私的な領域において性的指向に基づく差別を禁止する世界で初の広域行政区となりました。同時期、クロアチア、モンテネグロ、スロベニアおよびヴォイヴォディナも同性愛を合法化しました。

1978年、サンフランシスコで市会議員ハーヴェイ・ミルクと市長ジョージ・モスコーニが、同僚のダン・ホワイトによって暗殺されました。同年、シドニーで初めてのゲイ・アンド・レズビアン・マルディグラが開催され、大規模な祭典となります。また、このイベントでレインボーフラッグが初めてゲイ・パレードのシンボルとして使用されることになりました。サンフランシスコでは、レズビアン・フェミニスト BDSM 組織サモワ(Samois)が創設されました。メンバーには、パット・カリフィア(Pat Califia)や ゲイル・ルービン(Gayle Rubin)が所属しており、最も古くから、セックス・ポジティブ・フェミニズムを主張しています。

1979年には、日本で「プラトニカクラブ」のメンバー数人が「JGC」(ジャパン・ゲイ・センター)を結成し、ミニコミ誌「GAY」を8号、そして「CHANGE」を2号発行し、1982年に解散しました。また同年8月24日には、東郷健によって同性愛者の政治団体「雑民の会」が立ち上げられました。国際的には、ワシントンD.C.で初の全国的同性愛者権利マーチが開催され、キューバとスペインが同性愛を非犯罪化しました。また、ハリー・ヘイはアリゾナ州の集会でラディカル・フェアリー(Radical Faerie)の結成を提案しました。

1980年

アメリカ民主党が党大会で、アメリカ合衆国の主要政党として初めて同性愛者の権利に関する綱領を承認しました。また、スコットランドも同性愛を非犯罪化する法律を施行しました。

デヴィッド・マックレイノルズは、アメリカ合衆国社会党から大統領候補として出馬し、LGBTであることを公表していた最初の候補者となりました。

スティーヴ・エンディアン(Steve Endean)により、「人権運動基金」(Human Rights Campaign Fund)が創設されました。人権運動基金は、ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの平等のために積極的に活動しました。

1981年

欧州人権裁判所は、ダッジオン対イギリス(Dudgeon v. United Kingdom)事件において、北アイルランドでの同意成人間の同性愛行為を犯罪とする法律が人権に違反すると判断しました。この決定により、翌年に北アイルランドは同性間の性交を非犯罪化しました。

オーストラリアのビクトリア州とコロンビアが、性的同意年齢を統一し、同性愛を非犯罪化しました。アメリカでは「モラル・マジョリティ」が反同性愛運動を開始し、ノルウェーは同性愛者に対する差別を防止する法律を制定した世界で最初の国となりました。また、香港では初の性別適合手術が行われました。

1982年

フランスが性的同意年齢を統一しました。サンフランシスコでは第1回ゲイ・ゲームズが開催され、1600人の参加者を集めました。英国の北アイルランドが同性愛を非犯罪化し、ウィスコンシン州は同性愛者に対する差別を禁止したアメリカ合衆国最初の州となりました。

ニューサウスウェールズ州が、現実のまたは認定された同性愛を理由とする差別を禁止したオーストラリアで最初の州となりました。また、1982年10月にイギリスでHIVのインデックス・ケースとなるジョナサン・ブレイクが、当時HTLV3と呼ばれていたウイルスに感染していることが確認されました。

1983年

マサチューセッツ州から選出されたアメリカ議会下院議員ゲリー・スタッズは、議場で自身が同性愛者であることを公表し、アメリカ議会で初めて自らの同性愛を明かした議員となりました。同年、ガーンジー島(オルダニー島、ハーム島およびサーク島を含む)とポルトガルが同性愛を非犯罪化しました。また、エイズがジェリー・ファルエルによって「ゲイの疫病」と表現される出来事もありました。

1984年

国際ゲイ連盟日本支部(IGA日本)が発足しました。同年、香港でレズビアンとゲイの権利を推進する団体「10パーセント・クラブ」が組織されました。アメリカのマサチューセッツ州では、ゲリー・スタッズ議員が前年のカミングアウトにもかかわらず再選され、その支持を確固たるものにしました。また、オーストラリアではニューサウスウェールズ州とノーザンテリトリーが同性愛行為を合法化しました。

イギリス議会議員に選出された直後にクリス・スミスが「わたしの名はクリス・スミスです。わたしはイズリントン・サウスおよびフィンズベリー選出の労働党所属の国会議員で、ゲイである」と公に宣言しました。これにより、クリス・スミスはイギリス議会で初めて自らの同性愛者であることを明かした政治家となりました。また、同年、アルゼンチンでは複数の既存の同性愛に関係する団体が合併し、アルゼンチン同性愛者共同体(Comunidad Homosexual Argentina, CHA)が結成されました。

バークレー(カリフォルニア州)は、アメリカ合衆国内で初めて、市の職員を対象にしたドメスティック・パートナーシップ健康給付金プログラムを採択した都市となりました。このプログラムにより、同性パートナーも異性パートナーと同様に健康給付の対象となり、職員の福利厚生の平等性が拡大しました。

1985年

フランスでは、雇用やサービスにおいてライフスタイルを理由とした差別を禁止する法律が制定されました。同年、ゲイ・ホロコーストの犠牲者を追悼するための最初の慰霊祭が行われ、これによりナチスによる迫害の犠牲となった同性愛者たちを公式に記録することになりました。また、ベルギーでは同性愛と異性愛の性的同意年齢を統一する法改正が行われました。

1986年

日本では、3月に「動くゲイとレズビアンの会」(現・アカー)が結成されました。アカーは、同性愛者の権利を支持する団体として、現在(2024年)も活動を行っています。同年5月には「ILGA日本」(ILGA-Japan)主催による「第1回アジアゲイ会議」が開催され、アジア地域の同性愛者コミュニティの連携と支援の強化が図られました。また、ニュージーランドでは同年に同性愛法改正法が制定され、16歳を超える男性同士の性交が合法化されました。

6月、アメリカ合衆国最高裁判所は「バウアーズ対ハードウィック事件」で、ジョージア州のオーラル・セックスおよびアナル・セックスを禁止する法律を是認しました。この判決により、同性愛関係に対するプライバシー権は憲法で保護されないとされ、異性愛者に対する法の適用については明確な言及がありませんでした。

1987年

「ACT UP」(AIDS Coalition to Unleash Power)が最初の大規模なデモンストレーションを行い、17人が逮捕されました。同年、アメリカ合衆国の連邦議会議員バーニー・フランクが同性愛者であることをカミングアウトしました。また、同年にはアムステルダムに迫害された同性愛者の「ホモモニュメント」が建立されました。

1988年

スウェーデンは社会福祉、税、相続に関して同性愛者を保護する法律を制定し、同性カップルが異性カップルと同様の法的保護を受けることができるようになりました。この法律は、同性愛者の権利を保護する法律を制定した世界で最初の例となります。同年、イングランドおよびウェールズでは地方政府法第28条が制定され、スコットランドも同様の法律を採用しました。また、カナダではスヴェンド・ロビンソンがカミングアウトした初の連邦議会議員となり、カナダはソドミーの性的同意年齢を18歳に引き下げました。

ベリーズとイスラエルは、ソドミーと男性同士の性行為を非犯罪化しました。イスラエルでは、1936年にイギリス委任統治時代に制定された関連する規定があったものの、実施されることはありませんでした。

1989年

西オーストラリア州が男性同性愛を非犯罪化しましたが、性的同意年齢は21歳と設定されました。リヒテンシュタインは同性愛を合法化し、デンマークは同性カップルに結婚とほぼ同等の権利を認める登録制パートナーシップを制定しました。ただし、デンマークの制度は養子縁組や教会での結婚式を挙げる権利は含まれません。これにより、デンマークはこの種の法律を制定した世界初の国となりました。LGBTお部屋探し

1990年

5月17日、世界保健機関(WHO)は、疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)から同性愛を削除することを決議しました。同日、イギリスではLGBT人権直接行動団体アウトレイジ!(OutRage!)が結成されます。また、チェコスロバキアは性的同意年齢を統一し、ジャージー島は同性愛行為を合法化しました。この年、ジャスティン・ファシャヌがメディアでカミングアウトした最初のプロサッカー選手となりました。

1991年

2月に、東京都青年の家訴訟が日本で発生しました。この訴訟は、キリスト教系団体による嫌がらせを受けた同性愛者の団体が東京都の宿泊施設の再利用を拒否されたことに対して起こされ、1997年に原告の完全勝訴で終結しました。同年、バハマ、香港、ウクライナ、およびオーストラリアのクイーンズランド州がソドミーを非犯罪化しました。

レッドリボンがエイズ患者への理解と支援を促進するためのシンボルとして初めて用いられました。このシンボルは、エイズに関する意識を高め、感染者へのサポートを象徴的に表すものとして、広く認識されるようになりました。

1992年

世界保健機関(WHO)は、疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)から同性愛を除外しました。同年、オーストラリアは同性愛者が兵役に就くことを認めることで、性的指向に基づく差別を減少させる一歩を踏み出しました。また、マン島、エストニア、ラトビアが同性愛を合法化しました。

アイスランド、ルクセンブルク、およびスイスが性的同意年齢を統一し、性的指向に関わらず同じ年齢で同意が可能とされる法改正を行いました。同年、ニカラグアでは一時的に同性愛が再び犯罪とされましたが、2008年には再度非犯罪化されます。また、日本では、第1回「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」が開催されました。

1993年

トランスジェンダー男性(FtM)のブランドン・ティーナ(Brandon Teena)が強姦され殺害されるという悲劇が発生しました。同年、ワシントンD.C.では第3回同性愛者人権マーチが開催され、大規模な支持と注目を集めました。また、法的進展として、ノーフォーク島およびアイルランドがソドミー法を廃止し、ジブラルタルおよびロシア(チェチェン共和国を除く)も同意した男性同士のソドミーを非犯罪化しました。

ジブラルタルとロシア(チェチェン共和国を除く)が合意に基づく男性同士のソドミーを非犯罪化しました。また、リトアニアも同性愛を合法化する大きな法改正を行いました。さらに、ノルウェーは同性カップルに対して結婚した夫婦と同等の権利をほぼ認める登録制パートナーシップ法を導入しましたが、養子縁組の権利や教会での結婚式を挙げる権利は除外されています。

1994年

6月、フィリピンでアジア初のプライドマーチが開催されました。同年8月には、日本で初めて「東京レズビアン・ゲイ・パレード」が行われ、南定四郎氏が代表を務めました。また、バミューダ諸島、セルビア、南アフリカ共和国が同性愛を合法化し、イギリスでは男性同性愛者の性的同意年齢が18歳に引き下げられました。さらに、アメリカ医師会が同性愛を治療の対象から外す決定を行いました。

カナダが本国での安寧が脅かされる同性愛者に対して難民の地位を認める決定を行いました。同年、ドイツでは長年にわたり批判の対象となっていた刑法第175条が廃止になり、同性愛行為に対する法的な罰則が取り除かれました。また、イスラエル最高裁判所は同性愛者のカップルの権利をコモン・ロー上の夫婦と同等と定義し、法的な承認と保護を強化しました。

1995年

スウェーデンが同性カップルに対して結婚に近い権利を提供する登録制パートナーシップ法を制定しました。同年、カナダ最高裁判所は、性的指向に基づく差別をカナダ権利と自由の憲章の下で禁じるという画期的な決定を下しました。また、アルバニアとモルドバが同性愛を非犯罪化する法改正を行いました。

アメリカの団体「人権運動」が名称から「基金」という単語を削除し、「ゲイ、レズビアン、バイセクシュアルおよびトランスジェンダーの人々が平等を保障され、家庭、職場およびすべてのコミュニティでアメリカの家族の完全なメンバーとして受け入れられるようにすること」に重点を置くようになりました。

1996年

ブルキナファソでは性的同意年齢が統一されました。アイスランドは登録制パートナーシップ法を制定し、同性カップルに法的な認知を与える一歩を踏み出しました。ハンガリーでは、同性パートナーが未登録の内縁関係として承認されるようになり、ルーマニアとマケドニア共和国は同性愛を非犯罪化しました。

1997年

中華人民共和国が同性愛行為を非犯罪化しました。南アフリカ共和国は性的指向を理由とする差別を禁止する世界初の国になり、その憲法が発効しました。イギリスでは同性カップルにも移民権が広がり、結婚に類似した権利が認められました。また、フィジーは憲法で性的指向に基づく差別を禁止する2番目の国となりました。

タスマニア州が私的な同性愛行為を禁止する法律を廃止し、オーストラリアの州で同性愛行為を禁止するような法律は存在しなくなりました。同時に、エクアドルでは同性愛を非犯罪化し、ロシアでは性的同意年齢が統一されました。

1998年

アメリカのコロラド州で、マシュー・シェパードが同性愛者であるということを理由に殺害されるという悲劇的な事件が発生しました。アイルランドでは性的指向を理由とする不当な解雇を禁止する雇用平等法が導入され、カナダのアルバータ州では「Vriend v. Alberta」判決により性的指向が人権法の保護対象に含まれるようになりました。また、エクアドルは憲法で性的指向に基づく差別を明示的に禁止する世界で3番目の国となりました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ、チリ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンが同性愛を合法化しました。クロアチアおよびラトビアは性的同意年齢を統一する措置を取り、キプロスは同性愛を非犯罪化する法律を制定しました。

1999年

カリフォルニア州が登録制パートナーシップ法を採用し、フランスではシビル・ユニオン法が制定されました。これにより、同性カップルにも異性カップルと同様の法的権利が認められるようになりました。また、イギリスでは「クイア青年同盟」(Queer Youth Alliance)が設立され、若いLGBTの支援と権利擁護を目指しています。イスラエルの最高裁判所は、レズビアンの女性を彼女のパートナーの実子の、もう1人の法律上での母親として承認しました。

フィンランドが性的同意年齢を異性愛および同性愛で統一しました。これにより、性的同意年齢において性的指向に基づく区別がなくなりました。

2000年

イギリスでは同性愛者が兵役に就くことを禁じていた法令が廃止されました。また、スコットランドでは地方政府法第28条が廃止され、同性愛者に対する法的な制限が一部解除されました。アゼルバイジャンおよびグルジアでも同性愛行為が合法化され、ガボンでも同性愛を非犯罪化しました。さらに、イギリス、ベラルーシ、イスラエルでは性的同意年齢を統一し、性的指向に関わらず同じ年齢が適用されるようになりました。

ドイツ連邦議会はナチス政権下で迫害されたゲイおよびレズビアン、ならびに「1969年までの同性愛者に対する迫害」に対して公式に謝罪しました。アメリカ合衆国で最初にシビル・ユニオンを法制化した州としてバーモント州が名を連ねました。また、イスラエルは同性間の関係をイスラエルの住民の外国人パートナーの移民目的として承認することにしました。

オランダで、同性結婚の合法化に関する法案が2000年9月12日に下院で賛成109票、反対33票で可決されました。その後、12月19日に上院でも賛成49票、反対26票で通過し、12月21日にベアトリクス女王の承認を得て法案が成立しました。この法律は2001年4月1日に施行され、オランダは同性結婚を合法化した世界初の国となりました。

2001年

アメリカのアリゾナ州がソドミー法を廃止しました。また、アルバニアとリヒテンシュタインは性的同意年齢を統一しました。ドイツでは同性カップルのための登録制パートナーシップ法が制定されました。一方、セルビアのベオグラードで初めてのゲイ・パレードが試みられましたが、抗議者たちによって中断されました。

イギリスの残りの領域で同性愛が合法化されました。また、4月1日には世界で初めてオランダで同性結婚が法制化され、歴史的な一歩が踏み出されました。

2002年

オーストリア、ブルガリア、キプロス、エストニア、ハンガリー、モルドバ、ルーマニア、そして西オーストラリア州が性的同意年齢を統一しました。また、ルーマニアでは、以前「恥ずべきソドミー」を処罰していた刑法第200条が廃止されました。そして、スウェーデンでは、同性カップルの養子縁組が法制化されました。

また、スイスのチューリッヒ州が結婚と同様の権利を同性カップルに拡大しました。同年、オランダの政治家でゲイであることを公言していたピム・フォルタインがフォルカー・ファンデルフラーフによって暗殺されるという悲劇が起こりました。中華人民共和国では同性愛の行為が非犯罪化され、大きな法的変革が行われました。

ブエノスアイレスでは、同性カップルに結婚に類似した権利を提供するシビル・ユニオン法が制定されました。ラテンアメリカの都市としては初めてとなります。また、アメリカ合衆国アーカンソー州の最高裁判所は、ジェグリー対ピケイドー事件において、州の反ソドミー法を無効と判断しました。

2003年

ベリーズが再度同性愛行為を犯罪化する措置を取ります。一方、イギリスではイングランドおよびウェールズにおいて、同性愛者に対する教育内容の制限を設けていた地方政府法第28条が廃止されました。

アメリカ合衆国最高裁判所は、まだ残っていた各州のソドミー法を無効と宣言し、全米での同性愛行為の犯罪化を終結させます。また、アルメニアでも、男性同性愛者のソドミーが非犯罪化されました。

リトアニアとオーストラリアのノーザンテリトリーおよびニューサウスウェールズ州が、性的同意年齢を統一しました。同時に、ベルギーは6月1日に同性結婚を法制化し、カナダのオンタリオ州も6月10日に同性結婚を合法化しました。これにより、カナダで初めての同性結婚合法化となりました。また、ドイツ最高裁判所はシビル・ユニオン法を支持する決定を下しました。

2004年

タスマニア州で「2003年関係法」に基づく登録制パートナーシップが発効となりました。2月1日からはカーボベルデおよびマーシャル諸島で同性愛が合法化されました。ポルトガルは性的指向を理由とする差別を禁止する国内憲法の規定を導入し、世界で4番目にこの種の措置を取り入れた国となりました。米国ではマサチューセッツ州が同性結婚を合法化しましたが、その他の11の州が州民投票により同性結婚を禁止としました。また、ニュージャージー州ではドメスティック・パートナーシップが法制化されました。

ブラジルのリオグランデ・ド・スル州がシビル・ユニオンを承認しました。日本では2003年7月16日に性同一性障害者特例法が成立し、性同一性障害者の法的性別変更が可能になりました。オーストラリアは8月13日に同性結婚を禁止する法律を制定し、ニュージーランドはシビル・ユニオン法を導入して同性カップルにも法的保護の範囲が広がりました。また、ルクセンブルクもシビル・ユニオンを導入し、同性カップルの権利を強化しました。

ベルギーでは、同性婚したカップルが養子を持つことができるようになりました。

2005年

ニュージーランドが性自認を理由とするヘイトクライムおよび雇用差別を禁止し、世界で初めて法律に明記された国となりました。プエルトリコは反ソドミー法を廃止し、香港は司法判決により性的同意年齢を統一しました。ウガンダとラトビアは憲法を改正して、同性結婚を禁止することを明文化しました。アンドラは「持続性のあるユニオン」という形式で同性パートナーシップを公式に承認しました。

イランで2人の10代のゲイ男性、マフムード・アスガリとアヤズ・マルホニが処刑されました。スイスでは国民投票を通じて登録された同性カップルの権利拡大が承認されました。南アフリカ共和国最高裁判所は同性結婚を禁止することが憲法違反であると判定し、法制化を決定しますが、法律の発効は翌年12月1日とされました。

アンドレ・ボワスクレールがケベック党の党首に選ばれ、同性愛者であることを明かしている男性としては北米の主要政党の党首になる初の事例となりました。イギリスでは、結婚とほぼ同等の権利を持つシビル・パートナーシップが導入されました。アメリカ合衆国メイン州では、既存の反差別法に性的指向と性自認を追加しました。7月3日にはスペインで、7月20日にはカナダ全13州で同性結婚が合法化され、同性カップルの養子縁組も認められるようになりました。LGBTお部屋探し

2006年

セルビアとマン島が性的同意年齢を統一しました。アメリカのイリノイ州では性的指向に基づく差別を禁止する法律が施行され、ワシントン州も既存の反差別法に性的指向と性自認を加えました。ミズーリ州では同意成人間の同性愛が合法化されました。一方、モスクワで行われたロシア初のゲイパレードは暴力的な終わりを迎えました。

クロアチアのザグレブで初めて東ヨーロッパ・プライドが開催されました。同時に、アメリカ合衆国上院は結婚に関する憲法改正案の通過に失敗しました。カナダのモントリオールではLGBT人権国際会議が行われ、チェコとスロベニアがシビル・パートナーシップを導入しました。また、メキシコシティがメキシコで初めてシビル・ユニオンを法制化しました。

イスラエル最高裁判所が外国で行われた同性結婚を認めるよう立法府に指示しました。フィジーは同意のある同性愛行為を合法化し、ドイツは反差別法の適用範囲に性自認を加えました。オーストラリアの南オーストラリア州では、法律の適用対象を同性カップルにも拡大することが決定しました。これにより、州内の法的保護が同性カップルにも適用されるようになりました。

マン島では、地方政府法第28条が廃止されました。フェロー諸島では、性的指向に基づく差別を禁止する法案が賛成17票、反対15票という僅差で可決されました。また、南アフリカ共和国は11月30日に同性結婚を法制化し、法的に同性カップルの結婚を認めたことになります。

2007年

スイスでは登録制パートナーシップが発効し、ジャージー島では性的同意年齢が統一されました。アメリカのニュージャージー州とメキシコのコアウイラ州でもシビル・ユニオン法が施行されました。また、トルコのイスタンブールでは、ムスリム国としては初めてゲイ・パレードが行われ、注目されました。

南オーストラリア州とアメリカのワシントン州では、ドメスティック・パートナーシップ法が発効し、同年イギリスでは平等法が施行されました。この法律は性的指向を理由とする差別を禁止し、平等および人権委員会を設立しました。また、オレゴン州、コロラド州、オハイオ州、およびアイオワ州では私的領域における性的指向または性自認を理由とする差別が禁止される法律が制定されました。

8月9日、アメリカ合衆国のケーブルテレビ局ロゴは、特にLGBT問題に焦点を当てた、アメリカ合衆国初の大統領候補によるフォーラムを主催しました。このフォーラムには6人の民主党候補が出席しましたが、共和党の候補は招待されたにもかかわらず出席を拒否しました。同年、ネパールは最高裁判所の命令により同性愛を合法化し、ポルトガルおよび南アフリカ共和国は性的同意年齢を統一しました。また、オーストラリアではペニー・ウォンが気候変動と水の大臣に就任し、同性愛者の大臣就任は彼女が同国初となりました。

2008年

1月1日には、ニューハンプシャー州およびウルグアイでシビル・ユニオン法が発効しました。また、2月4日にはオレゴン州でドメスティック・パートナーシップ法が発効し、多くのカップルがパートナーシップの申請を行いました。同年、ニカラグアおよびパナマが同性愛を合法化し、新しい刑法の下で性的同意年齢を統一しました。さらに、コソボが東欧では初めて「性的指向」に言及した新憲法とともに独立を宣言しました。

5月15日、カリフォルニア州最高裁判所が同性カップルに結婚と同等の権利を否定するのは違憲であると決定しました。これにより、カリフォルニア州は同性結婚を法制化したアメリカ合衆国2番目の州となりました。同月、ゲイを公表しているサム・アダムズがポートランド市長に選出され、アメリカで最大の都市の市長となりました。

6月3日、ギリシャのティロス島で2組の同性カップル(男性同士と女性同士の1組ずつ)が結婚式を挙げましたが、ギリシャの検事総長と法務大臣はこれらの結婚が無効であると主張しました。同年11月15日、オーストラリア首都特別地域で「2008年シビル・パートナーシップ法」が施行され、12月1日にはオーストラリアのビクトリア州で「2008年関係法」が発効し、登録制パートナーシップが導入されました。

2009年

1月1日、ノルウェーで同性結婚法が施行されました。同日にハンガリーで、そして12月20日にオーストリアで「登録制パートナーシップ」法が発効しました。また、北キプロス・トルコ共和国では、新しい刑法によって男性同性愛が合法化されました。アイルランドではシビル・パートナーシップ法が施行され、同性カップルに法的な認知が進みました。

2月1日、アイスランドでヨハンナ・シグルザルドッティルが首相に就任しました。彼女は同性愛者を公言している世界で初めての国家首脳となります。また、同年5月1日にはスウェーデンで同性結婚が法制化されました。

2010年

3月4日に、メキシコのメキシコシティで同性結婚が合法化され、メキシコ国内で初めての事例となりました。続いて6月5日にはポルトガル、6月27日にはアイスランドでも同性結婚が合法化されました。

6月27日、アイスランドのヨハンナ・シグルザルドッティル首相が女性脚本家と結婚し、同性結婚をした世界初の国家首脳となりました。この出来事は、アイルランドで同性結婚が合法化された直後に行われました。続いて、7月22日には南米のアルゼンチンでも同性結婚が法的に認められ、アルゼンチンは同性結婚を認めたラテンアメリカ初の国となりました。

2012年

6月15日、デンマークで同性結婚が合法化されました。

2013年

5月16日、ブラジルで同性結婚が合法化されました。続いて5月18日にはフランスでも同性結婚が合法化されました。同年6月30日、ロシアでは未成年者の前で同性愛を宣伝する行為を禁止する法律が制定されました。このロシアの法律に対する抗議として、2014年2月7日のソチオリンピック開会式には欧米の複数の首脳が欠席し、政治的なボイコットが行われました。

6月26日、アメリカ合衆国連邦最高裁判所は、結婚を「男女間に限定する」と定義した結婚防衛法(DOMA)が違憲であるとの判決を下しました。その後、8月5日にウルグアイ、8月19日にはニュージーランドで同性結婚が合法化されました。

2014年

2月にウガンダで反同性愛法案が成立し、国際的にも大きな議論を呼びました。その後、3月13日にはイギリスのイングランドおよびウェールズで、12月16日にはスコットランドで同性結婚が合法化されました。

2015年

1月1日にはルクセンブルクで同性結婚が合法化されました。さらに6月26日には、米国最高裁判所がオーバーグフェル対ホッジス裁判において、同性結婚の禁止は違憲であるとの判決を下し、アメリカ合衆国全50州での同性結婚が事実上合法化されました。また、11月16日にはアイルランドでも同性結婚が法制化され、これによりアイルランドは国民投票により同性結婚を認めた最初の国となりました。

2016年

4月28日、コロンビアで同性結婚が合法化されました。また、同年10月1日、中華民国(台湾)では蔡英文政権下で、トランスジェンダー(MtF)の唐鳳(オードリー・タン)がデジタル担当政務委員に無任所閣僚として就任しました。

2017年

多くの国で同性結婚が合法化しました。3月1日にはフィンランドで、9月1日にはマルタで、10月1日にはドイツで、そして12月9日にはオーストラリアで同性結婚が法的に認められました。

2018年

9月6日、インド最高裁判所は同性愛を犯罪として取り扱う1861年からの法律を無効とする判決を下しました。これにより、インドで同性愛は非犯罪化されました。

2019年

1月1日にオーストリアで、5月24日には台湾で、そして7月8日にはエクアドルで同性結婚が法的に認められました。

2020年

北アイルランドとコスタリカで同性結婚が合法化されました。1月13日には北アイルランドで同性結婚が法的に認められ、これによりイギリス全土での同性結婚が可能となりました。5月26日にはコスタリカでも同性結婚が合法化され、中央アメリカで同性結婚を認める最初の国となりました。

2021年

2月3日に、アメリカ合衆国のジョー・バイデン内閣で、ゲイであることを公言している元サウスベンド市長のピート・ブティジェッジが運輸長官に就任しました。彼はアメリカで初めての同性愛者の閣僚となりました。また、2021年2月17日にはブータンで同性愛が非犯罪化されました。

2022年

3月10日にチリで同性結婚が合法化されました。また、5月13日にはアメリカ合衆国でレズビアンを公言しているカリーヌ・ジャン=ピエールがホワイトハウスの報道官に就任し、LGBT当事者としては初の役職を務めることになりました。

そして、7月1日には、将来スイスで同性結婚が合法化する予定が決まりました。

2023年

6月20日、エストニアで同性結婚が法制化されました。エストニアは旧ソビエト連邦構成国としては初めて同性結婚を認めた国となります。

まとめ

本記事では、世界の同性愛の歴史をまとめました。紀元前など遠い昔には、同性愛は自然と受け入れられていましたが、その後、同性愛に対して非常に厳しい時代になりました。それから、長い年月を経て、再び、同性愛が法的にも受け入れられる時代に入り、ここ最近は同性結婚や、それに等しい関係も結べる時代になってきています。

現在、同性結婚や、それに等しい関係を結べる国は非常に多くなってきていて、記事を書いている上では、日本も時間の問題なのではないかなと思いました。同性結婚、または、それに等しい関係が日本でも早くできるようになると良いですね。日本の同性愛の歴史は『こちら』からご覧ください。

【参考記事】