ジェンダーバイアス、と聞いて「なんだろう」と疑問に思う人や、多少不快な思いを抱く人もいるのではないかと思います。

この言葉は、最近見聞きする機会が増えた言葉なので、まだ意味を知らない人も多いと思います。

今回私は、自身の経験も交えてジェンダーバイアスについて考えてみました。

ジェンダーバイアスはどこから

まず、少し「ジェンダーバイアス」という言葉を整理していきます。この言葉は「性別によって役割に固定観念を抱くこと」「社会的性差における偏見」という意味を持ちます。そして「バイアス」、つまり偏見というのは、”無意識に生じるもの”と藤田雅博氏著書の「バイアスとはなにか」に記されていました。

「こうしよう」と思わなくても勝手に生じてしまう、自分の意識や意志で変えることはできないもの。それがバイアスです。

私たちは生きる中で、五感によって様々な情報に触れ、無意識のうちに様々なバイアスを獲得していきます。

その中に、幼少期の周囲の人々の無意識的な、「女の子なら」「男の子なら」という性別による判断や、自身の体験が「ジェンダーバイアス」となっているものもあると思います。

東洋や西洋、中東にしても、その歴史の中にはやはり「女性は」「男性は」という役割が多少にせよ存在し、ずいぶん昔からジェンダーバイアスが存在してきたことが推測できます。

例えば、身近な例ですと座敷での座り方が挙げられます。座敷は昔から存在していますが、そのマナーには「上座により身分の高い人、下座に身分の低い人」というものがあります。

そして、結婚の挨拶などで双方のご実家などへお邪魔した時などは「男性が上座」「女性が下座」です。

男性が身分が高く、女性が身分が低い方に座るのは何故なのか。それもやはり、日本における女性の身分や扱われ方など、昔から存在してきた無意識のジェンダーバイアスによるものなのではないしょうか。

趣味をやめた原因の一端

私の経験について、少しお話ししようと思います。私は2年ほど社交ダンスの、主にラテンダンスを趣味としていた時期がありました。

その当時は、ジェンダーバイアスという言葉も気にしたことがなく、自分のセクシュアリティについて考えたこともありませんでした。ですが、通っていた社会人サークルなどで、男性陣から多く言われた言葉は「女の子なんだから」という言葉でした。

私のダンスはどちらかというとパワフルな方でしたので、お淑やかさやしなやかさを「女性らしいダンス」と言うのであれば、そういった「女性らしいダンス」ではありませんでした。

「もっと感情を爆発させたい、ぶつけたい」とダンスに全力で取り組んでいたのですが、それは、男性陣の望む女性のあり方ではなかったようで、「女の子なんだから」と言われることが大変多かったです。

ですが「女の子」だからなんなのか、「女の子らしく」とはなんなのか。決められていることは何もないものに、どう合わせて欲しいのか、散々悩みました。そうして、私は徐々に疲弊し、心を病み、やがてダンスができなくなりました。

もちろん、男性陣への「こうあれ」という空気感も存在していましたし、「女性だけが」ということはありません。ただ、私は自身のこの経験から、無意識に生じているこのジェンダーバイアスは「その人らしさ」「個性」「心」を奪い取ってしまうのだと感じたのです。

ジェンダーバイアスを消す方法は

さて、私の経験を簡単にお話ししましたが、女性だけでなく男性にもこのジェンダーバイアスを感じる瞬間はあるでしょう。

「女性は生理があって大変なんだから」「妊娠があって」「こどもを産むのだって」…。だから「男はもっと優しくして」「このくらい大丈夫でしょ」。

よく見かける、これらの言葉の裏にはきっと「男のくせに」というジェンダーバイアスがあるのだと思います。私が「女の子なんだから」と言われて苦しんだのと同じように、「男なんだから」と言われて苦しむ人もいるでしょう。

そうして、「だからどうしたらいいのか」「自分がおかしいのか」「どう振る舞うべきなんだろうか」など、悩み、考え込んで、徐々に心が疲弊していく人が出てくるのだと思います。

それは男性も女性も関係なく、個々人が獲得してきた無意識のジェンダーバイアスと、その押し付けがそうさせるのです。

このジェンダーバイアスを消す方法は無いものだろうか、ということを考えてみましたが、おそらく無いのではないでしょうか。ですが、「互いのジェンダーを尊重する」という形で、そのジェンダーバイアスを軽くすることはできると思います。

ジェンダーの尊重

ジェンダーの尊重とはどいうことか。SNS上で一時”男女論争”が勃発していましたが、ご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。女性蔑視発言が問題になった頃です。

私は男性側、女性側の投稿を見ていましたが、その内容から感じたのは理解の押し付け合いでした。

ある投稿で、こんな話を読みました。その投稿者の男性は、海外へ行った際に小さな女の子と出会います。そして、その女の子に「私は生魚は嫌いだから食べないけど、あなたたちは好きでしょ?だからどんなものなのか教えてほしいの」と言われ、男性は「これが尊重か」と、ハッとしたそうです。

この男女論争になかったのは、こうした「私は違うけど、あなたはそうなのね」という「相手の気持ちへの寄り添いの欠如」ではないでしょうか。つまり、「女はね」「男だって」と言い合い、価値観を押し付けるのではなく、「そうか、男性もそういうところが大変なのか」「女性はそんなところで嫌な思いをしていたのか」という互いの「気持ちへの寄り添い」があれば、消すことは難しくても、”概念の存在感”を軽くすることはできるのではないかと思うのです。

ジェンダーバイアスとLGBTs

ここまで「男性」と「女性」におけるジェンダーバイアスについて書いてきましたが、ジェンダーは何も「男性」「女性」だけではありません。

LGBTs、セクシュアルマイノリティと呼ばれる人々の中には、様々なセクシュアリティが存在しています。そして、その中には「男性」「女性」だけではないジェンダーも存在します。

例えば、恋愛において多くの人々は「男性は女性を」「女性は男性を」好きになるものだと固定観念を抱いてきたことでしょう。私も昔はそうでした。

ですが、彼等は必ずしも異性を好きになるのではありませんし、見た目通りの性とも限りません。恋愛についてよく持ち上がる、好みについての話で「どんな男性が好きなの?」「どんな女性が好きなの?」と問う人もいると思います。ですが、これもジェンダーバイアスではないでしょうか。

前述した、「男性は女性を」「女性は男性を」好きになるものという固定観念が、そもそもジェンダーバイアスである私は思います。

「好きになるもの」ではなく、「男性は女性を好きになる役割」「女性は男性を好きになる役割」をそれぞれ担っている、と書き換えると冒頭でお話しした「性別によって役割に固定観念を抱くこと」という定義に、紐付きやすいかもしれません。

必ずしも異性を好きになるわけでも、人を好きになるわけでも、見た目通りというわけでもないのです。

単純に「どんな人が好みなのか」と問えばいいし、「好きにならない」と言われればそれまでです。

恋愛面での例をあげましたが、何事においても、性別に囚われて判断をする必要はないように思われます。

女性男性というより”その人”

ジェンダーバイアスに加え、LGBTsの話まで出てしまったので多少難しくなってしまったかもしれません。結局のところ、ジェンダーバイアスという概念の存在の重さや、LGBTsの人々のことを含めて考えると「押し付け合い」ではなく「尊重」、「どの性別かではなく、その人」という考え方に変革をすることが、少しでもジェンダーバイアスに苦しめられずに済む方法ではないかと思うのです。

新型コロナウィルスの影響などによって、2020年頃から様々なことが変わってきたように感じられますが、みなさんはいかがでしょうか。

ジェンダーバイアス、LGBTs以外にも、生活のあり方や仕事のあり方など。
多くのことを考え直していく必要に迫られている人もいるのではないでしょうか。

まだまだ続きそうなwithコロナの時代。考え方も、歩む未来も、もちろん人ぞれぞれ、十人十色です。

ですが、これから少しずつでも、本当にほんの少しずつでも、一人ひとりが生きやすい世界になっていけばいいなと思い、そう願います。

最後になりますが、ここまでお読みいただきありがとうございました。