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【昔はどんな場所だった?】新宿二丁目の歴史を調べてみた!

ゲイ

こんにちは!LGBTs当事者による、LGBTsフレンドリーな不動産会社IRISのヨシヒロです。
今では新宿二丁目というと、世界有数のゲイタウンであり、マイノリティが集う街としてすっかり定着しています。
二丁目に足を踏み入れてみると、古めかしい雑居ビルが立ち並ぶ独特な雰囲気は、不思議な魅力を帯びて、人々を惹きつけてやみません。

新宿二丁目は一体いつごろからゲイタウンとして成立したのか気になっていました。
そこで、今回は新宿二丁目の歴史について、伏見 憲明氏の『新宿二丁目』(新潮新書)をベースにご紹介させていただきます。

新宿の歴史1(江戸時代〜大正時代)

江戸時代に日本橋を起点とした五街道が定められ、そのうちの1つで、山梨県へとつながるのが甲州街道です。
日本橋から最初の宿場町である高井戸までの距離が16キロ近くもあり遠かったため、中間地点の宿場町として内藤新宿が1698年に整備されたと表向きにはされています。

しかし、伏見氏によると、浅草の商人、高松喜兵衛らが最初から遊里の趣のある宿場を開設して儲けようとして内藤新宿を開設したことを指摘しています。
当時、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿は「男の遊興の地」として大変賑わっており、その賑わいを新宿でも創出して稼ごうとしたようです。

高松喜兵衛らによって、現在の四谷三丁目交差点あたりから新宿三丁目の交差点付近まで約1kmほどの間に738軒もの宅地が立ち並ぶほどに発展します。
しかし、徳川吉宗の享保の改革により、風紀の取り締まりが厳しくなってしまい、内藤新宿は一旦廃宿にされてしまいます。

廃宿後、度重なる請願によって宿場が再開され、遊郭としての色をさらに強めていきました。
街道沿いには旅籠や茶屋の数も増えていき、歓楽街を形成しました。
その賑わいは明治時代になっても続き、鉄道の登場によって変化していきます。

1885年には内藤新宿駅が開設され、その4年後には現在の中央線が接続されます。
1900年代初頭には路面電車、京王線、西武線が新宿駅に接続され、新宿は宿場町から商業地へと変化していきます。

成覚寺・太宗寺について

現在も二丁目にある成覚寺は1594年創建と伝えられていて、二丁目が妓楼だった時代には、亡くなった遊女の投げ込み寺にされていたそうです。

亡くなった遊女は、身に付けていた物を全て剥ぎ取られ、投げ込むように葬られたそうで、その数は2200とも3000ともされているそうです。
境内には供養塔や案内板もあります。

また夏目漱石は、現在も二丁目に存在する太宗寺の境内で幼少期に遊んでいたそうです。

新宿の歴史2(大正〜昭和)

大正時代になっても遊郭の繁栄は続いていましたが、度を越した遊興が問題視されます。
そして1918年警視庁により、現在のルミエールや新千鳥街がある新宿二丁目へと移転命令がだされました。
1922年新宿遊郭が誕生します。

翌年の関東大震災の災禍をかろうじて逃れたため、被災した新吉原の客なども流れ込み、ますます繁盛するようになります。
当時、二丁目と言えば新宿遊郭を意味するほどに有名な遊郭になっていたそうです。

しかし第二次世界大戦末期の1945年5月25日、米軍による空襲で、あたり一面は焼け野原にされてしまいました。
終戦後、新宿遊郭があった二丁目のあたりは、警視庁により「特殊飲食店」として営業が認可されるようになります。
「特殊飲食店」とは

飲食店側は場所を貸すだけで、私娼が勝手に客と自由恋愛をする、という名目での商売が認められたのである。

と記載されています。
この特殊な営業が許可された地域を赤線、無許可で営業されていた地域が青線と呼ばれ、新宿二丁目は大半が赤線となり、隣り合う青線とともに再び色街として大繁盛します。
しかし、1958年に売春防止法の施行によって赤線が廃止されてしまい、遊郭としての役割が消えていきます。

1960年代、1970年代に入ってもヌードスタジオ、トルコ風呂(現在のソープランド)といった異性愛者向けの性的店舗は存在していましたが、80年代に入ると同性愛者向け店舗が圧倒するようになります。
現在、異性愛者向け店舗では靖国通り沿いにソープランドが数軒営業しているのみとなりました。

新宿にゲイバーが登場

1951年、松浦貞夫氏が新宿三丁目に開業した店「イプセン」という店が新宿のゲイバーの原型と言われているそうです。
開店当初はゲイバーとして開業した訳ではなかったものの、ゲイの知人がたまっていき自然とそうなったようです。
進駐軍関係のゲイ、レズビアンや江戸川乱歩、三島由紀夫がお忍びで来店する隠れ家的な店でした。

ところが1953年、大衆紙に「男色酒場」としてとりあげられてしまい、世間に知れ渡るようになりました。
しかしインターネットやゲイ向け雑誌のない時代、この記事によって男性同性愛者が大勢押しかけ、大繁盛するようになりました。
その繁盛に続くように、「蘭屋」、「シレー」、「ラ・カーブ」、「ロートレック」といった店が出店します。

また、「イプセン」と同じく1951年に創業し、現在も営業されている居酒屋「どん底」は、時代によっては同性愛者が多く集まっていたことがあり、「ホモ系バー」にカウントされる場合もあるようです。
このお店には三島由紀夫、黒澤明、美川憲一などの有名人が来店していたようです。

こういったお店が新宿三丁目に出店したものの、その後二丁目の方がゲイバーのメッカとなり、1970年代には、現在の街並みに近い状態になっていたそうです。
そして1980年代には、異性愛者向けの店舗よりも同性愛者向け店舗の方が圧倒するようになりました。

ゲイバーの役割の変化

自らも新宿二丁目でゲイバーを経営する伏見氏は、ゲイバーの果たす役割の変化についても言及しています。
当初、ゲイや女装などセクシャルマイノリティの区分が現在ほど細かく分かれていなかった時代、ゲイバーの原型はジャズバーや文豪バーなどとも言える形からスタートしました。
現在以上に同性愛者であることを隠す必要があった時代、ゲイバーは性的マイノリティが出会うことのできる貴重な場所だったことでしょう。

ゲイバー全盛期には、タイプの相手と出会えるまでいくつものゲイバーをはしごするといったことも多かったようです。
当然、各ゲイバーに落ちるお金も少なくはなかったことでしょう。

しかし、インターネットや出会い系アプリの登場で、「出会いの場」としてのゲイバーの果たす役割が減少していきます。
もはやゲイのお金だけでゲイバーを運営するのは困難な時代となり、ヘテロセクシャルの男女を受け入れる観光バー(mixバー)に移行する店舗も増えてきたようです。

純粋なゲイだけを対象としたバーは今後減っていくかもしれないという指摘をされています。

これからの新宿二丁目は?

新宿二丁目は江戸時代には女を目当てにする男を引き寄せ、現在では同性に惹かれる男を中心とした性的マイノリティを引き寄せている不思議な場所であることがわかりました。
二丁目といったら新宿遊郭という女遊びの場を意味していた時代があったなんて驚きです!
300年も前から現在まで、新宿二丁目は表立って表現することがはばかられる色の街として続いているだなんて、本当に不思議です。

歴史を振り返ると、法律や戦争といった要員で街は急激に変化することがよくわかりました。
現在の「二丁目といえばゲイタウン」といった風潮がいつまでも続くのか、案外わからないのかもしれません。

新宿二丁目の歴史まとめ

・江戸時代は内藤新宿という宿場町の中心地であり、甲州街道沿いには妓楼(遊女がいる家)が立ち並び、男たちの遊び場だった。

・明治時代も色街として繁栄し、大正時代には現在の二丁目に新宿遊郭として一箇所にまとめられ、関東大震災を経てさらに栄えた。

・第二次世界大戦後も赤線、青線の色街としてヘテロセクシャルの男たちの遊び場であったが、売春防止法により衰退後、ゲイ向け店舗が進出。

・1980年代になるとヘテロセクシャル向け店舗よりもゲイ向け店舗が圧倒するようになった。

・300年間、性的対象が異なるにせよ、男たちの隠れた遊び場であることは変わらない。

以上です。
ここまで読んでいただきどうもありがとうございました。

この記事を書いたのは

ヨシヒロ

2021年よりライターデビュー。エスニック料理好き。より良い記事が書けるよう精進中!

IRIS(アイリス)は主にレズビアンやゲイ、トランスジェンダー、バイなどLGBTs(LGBT)当事者を対象として、お部屋探し、物件購入などの不動産仲介を行うLGBTs(LGBT)フレンドリーな不動産会社です。
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