新宿二丁目というと、今では「nichome」として世界でも有数のゲイタウンであり、マイノリティが集う街としてすっかり定着しています。
そんな新宿二丁目はなぜゲイやLGBTsの集う街として成立したのでしょうか。
新宿の誕生
江戸時代に日本橋を起点とした五街道が定められ、そのうちの1つで、山梨県へとつながるのが甲州街道です。
日本橋から最初の宿場町である高井戸まで遠かったため、中間地点の宿場町として1698年に内藤新宿が整備されたと表向きにはされています。
しかし、当時の街道沿いの宿場町は「男の遊び場」として賑わっており、それに続こうという意図もあったようです。
現在の四谷三丁目交差点あたりから新宿三丁目の交差点付近まで約1kmほどの間に738軒もの宅地が立ち並ぶほどに発展します。
しかし、徳川吉宗の享保の改革により、風紀の取り締まりが厳しくなってしまい、内藤新宿は一旦廃宿にされてしまいます。
廃宿後、度重なる請願によって宿場が再開され、遊郭としての色をさらに強めていきました。
その賑わいは明治時代になっても続き、鉄道の登場によって変化していきます。
1885年には内藤新宿駅が開設され、その4年後には現在の中央線が接続されます。
1900年代初頭には路面電車、京王線、西武線が新宿駅に接続され、新宿は宿場町から商業地へと変化していきます。
新宿遊郭の誕生
大正時代になっても遊郭の繁栄は続いていましたが、度を越した遊興が問題視されます。
そして1918年警視庁により、現在のルミエールや新千鳥街がある新宿二丁目へと移転命令がだされました。
1922年新宿遊郭が誕生します。
翌年の関東大震災の災禍をかろうじて逃れたため、被災した新吉原の客なども流れ込み、ますます繁盛するようになります。
当時、二丁目と言えば新宿遊郭を意味するほどに有名な遊郭になっていたそうです。
しかし第二次世界大戦末期の1945年5月25日、米軍による空襲で、あたり一面は焼け野原にされてしまいました。
終戦後、新宿遊郭があった二丁目のあたりは、警視庁により「特殊飲食店」として営業が認可されるようになります。
「特殊飲食店」とは
飲食店側は場所を貸すだけで、私娼が勝手に客と自由恋愛をする、という名目での商売が認められたのである。
と記載されています。
この特殊な営業が許可された地域を赤線、無許可で営業されていた地域が青線と呼ばれ、新宿二丁目は大半が赤線となり、隣り合う青線とともに再び色街として大繁盛します。
しかし、1958年に売春防止法の施行によって赤線が廃止されてしまい、色街としての活気が衰退していきます。
ゲイタウン化する新宿二丁目
1951年、新宿三丁目に開業した「イプセン」という店が新宿のゲイバーの原型と言われているそうです。
その後も現在でいうところのゲイバーのようなお店が新宿三丁目に複数出店したものの、その後新宿二丁目がゲイバーのメッカとなります。
売春防止法によって活気を失った新宿二丁目近辺は一般の人には縁が遠く、人目をはばかるセクシュアルマイノリティの人々にとって都合が良かったのかもしれません。
1960年代にはすでに新宿二丁目にゲイ向け・レズビアン向けの店舗が複数存在していたようで、1970年代には、現在の街並みに近い状態になっていたそうです。
異性愛者向け風俗店は1960年代、1970年代に入ってもヌードスタジオ、トルコ風呂(現在のソープランド)などが存在していましたが、80年代に入ると同性愛者向け店舗が圧倒するようになります。
ゲイバーの役割の変化
インターネットや出会い系アプリの登場で、出会いの場としてのゲイバーの果たす役割が薄くなりました。
ゲイが落とすお金だけでゲイバーを運営するのは困難な時代となり、異性愛者の男女を受け入れる観光バー(mixバー)に移行する店舗も増えてきたようです。
またダイバーシティ時代を反映し、「すべてのセクシュアリティを歓迎する」お店もでてきています。
純粋なゲイだけを対象としたバーは今後減っていくのかもしれません。
これからの新宿二丁目は?
新宿二丁目は江戸時代には女を目当てにする男を引き寄せ、現在では同性に惹かれる男を中心とした性的マイノリティを引き寄せている不思議な場所であることがわかりました。
二丁目といったら新宿遊郭という女遊びの場を意味していた時代があったなんて驚きです!
歴史を振り返ると、法律や戦争といった要員で街は急激に変化することがよくわかりました。
現在の「二丁目といえばゲイタウン」といった風潮がいつまでも続くのか、案外わからないのかもしれません。
ゲイ以外の一般客の増加にともなって、従来のゲイバーに通っていた客が他の街へ流出している、という意見もあります。
上野・浅草・新橋・渋谷・中野には複数のゲイバーがありますし、最近では高田馬場のゲイバーも人気のようです。
新宿二丁目の歴史まとめ
・江戸時代は内藤新宿という宿場町の中心地であり、甲州街道沿いには妓楼(遊女がいる家)が立ち並び、男たちの遊び場だった。
・明治時代も色街として繁栄し、大正時代には現在の二丁目に新宿遊郭として一箇所にまとめられ、関東大震災を経てさらに栄えた。
・第二次世界大戦後も赤線、青線の色街として異性愛者の男たちの遊び場であったが、売春防止法により衰退後、ゲイなどのマイノリティ店舗が進出。
・1980年代になると異性愛者向け店舗よりもゲイ向け店舗が圧倒するようになった。
・300年間、性的対象が異なるにせよ、隠れた遊び場であることは変わらない。